2020年12月16日 12:04 公開

ゴードン・コレラ、BBC安全保障担当論説委員

英情報部MI6の現長官がツイッターで自分の小説を「優れた描写力で見事」だと称賛したのを見て、12日に亡くなったジョン・ル・カレ氏は苦笑したかもしれない。小説家ル・カレ氏と元同僚たちの関係は常に、非常に複雑なものだったし、ル・カレ氏に対するMI6関係者の態度も複雑だった(文中敬称略)。

諜報の世界での経験がル・カレの作家人生を決定したし、逆にイギリスの諜報活動に対する世界の見方の相当部分はル・カレ小説の影響を受けていた。スパイが自分たちについて語る言葉遣いさえ、ル・カレの影響を受けた。

作家が実体験をもとに小説を書くのはよくあることだ。しかし、ル・カレが経験したのは秘密の世界だった。しかも当時は、今よりはるかに秘密の世界だった。それだけに、どこまでが事実でどこからが創作なのか判然としなかったし、そこから生まれたミステリアスな空気は有用だと、本人も理解していた。

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英保安局MI5とMI6で相次ぎ働いた経験が、ル・カレの創作活動の源泉だったかもしれないが、自分の実体験は極力明かさなかった。

「自分のかつての職場について、両方とも、あまりに複雑な記憶と複雑な気持ちを抱いているので、自分が本当はどう思っているのか理解できたためしがない」と、ル・カレはかつて私にこう言った。

「いまのところ、現実を知る人から、実態を暴露したなと責められたことはない。これは誇らしいことだ」とも、付け加えた。

ル・カレの本名はデイヴィッド・コーンウェルという。そしてコーンウェルが英情報部で過ごした時代は、実に陰鬱(いんうつ)な時代だった。

複雑で道徳的にもあいまい

裏切り者の存在が、次々と発覚していたからだ。

「自分の基礎訓練がまだろくに終わっていないころに、(MI6で)高く評価されていた長年のベテラン、ジョージ・ブレイクがロシアのスパイだと露見した」と、ル・カレは後に自伝で書いている。

その後にMI6高官のキム・フィルビーがソ連の二重スパイだと発覚した事件は、ル・カレの代表作「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」の物語のきっかけにもなった。

熾烈(しれつ)な裏切りが横行する冷戦下の世界に、きわめて人間くさい感情や、自ら裏切りながら自分も裏切られる人間ドラマを組み合わせる。そうした見事な作劇をル・カレは得意とした。

情報機関に潜伏する敵の工作員を「モグラ」と呼ぶ習慣は、ル・カレ作品からきているという意見もある(訳注:ル・カレ自身は1976年にBBCに、「モグラ」はもとはソ連の情報機関KGBの用語だったと話している)。ほかにも、ル・カレが小説で使った様々な諜報活動の用語が、今では一般的に使われるようになっている。現実のスパイの間でも。

米中央情報局(CIA)の中で対ロ作戦を担当する部署は、もう何年も前から「ロシア・ハウス」と呼ばれる。ル・カレが1989年に発表した同名小説にちなんだ名称だという人もいる。

このCIAの「ロシア・ハウス」出身者たちは、実際のCIAが実際に相手にしているロシア側のスパイのことを、自分たちの「カーラ」だと私に話した。「カーラ」とは、ル・カレ小説に登場するソ連側の大物スパイだ。「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」などの連作で、MI6のベテランスパイ、ジョージ・スマイリーの仇敵として繰り返し登場する。

イアン・フレミングのジェイムズ・ボンドは総天然色の現実逃避型ファンタジーだった。それに対してル・カレのスパイたちは灰色の世界、複雑で道徳的にもあいまいな現実に根を張っていた。

しかしそれゆえに、MI6出身者の中には、決してファンではないというか、ル・カレ作品を快く思わない人たちもいた。

「こともあろうに、冷たい裏切りの世界だなどと彼は言うが、そんなことはない。実際には、信頼の世界だ。情報部員と工作員は、お互いを信頼していなければ、活動などできない」。ル・カレと同時期にMI6に在籍したダフニ・パーク女男爵は、私にこう話したことがある。

MI6の元長官、サー・リチャード・ディアラヴは数年前にクリヴデン文学祭で、MI6や諜報活動に対してシニカルなイメージを広めているとル・カレを批判した(ル・カレは当時、自分の新作小説の宣伝にぴったりのタイミングだと反応していた)。

スパイの現実とル・カレの関係がきわめて複雑だったように、スパイたちもフィクションに対して実に複雑な思いを抱いている。自分たちの世界のイメージをゆがめられるのが嫌だと思うこともあれば、なぞめいた不思議な世界だという内外のイメージをありがたく思うこともあるのだ。

「情報部の中には長年、2つの捉え方があったと思う」。冷戦末期にMI6のトップだったサー・コリン・マコールは、2009年に私にこう話した。

「情報部員を皆、ひどく性格の悪い、同僚に対して悪巧みばかりしている連中として描いているからと、ル・カレに激怒している者も大勢いた(中略)けれども私は、素晴らしいと思っていた(中略)おかげで我々の組織はあと何十年かは、特別な存在でいられると」

スパイにまつわる神話

しかし近年の秘密情報部は昔ほど秘密ではなくなっているし、フィクションの世界とは距離を起いて、現実世界の存在として足場を固めようとしている。

「自分の経験で言うと、事実とフィクションは別物だ」と、MI6の元長官、サー・ジョン・スカーレットはル・カレの訃報に接して、BBCに話した。ル・カレは傑出した小説家だったとたたえた上で、事実と創作を「混同してはならない」と述べた。

しかし、事実とフィクションはしばしば混同されてきた。秘密主義のせいで事実の真空が生じていた時代は特に。

ル・カレ本人も、自分の小説がスパイにまつわる神話をふくらませてしまったことは承知していたし、そのことに複雑な思いを抱いていた。ル・カレはかつてこう書いた。

「読者が、読者が属する一般世間と同様に、しかもあらゆる証拠がそうしてはならないと教えているのに、読者自身が、スパイを信じたがっている。それが問題だ」

(英語記事 How fact met fiction in Le Carré's secret world