橋場日月(歴史研究家、歴史作家)


 天正8(1580)年8月2日、教如(きょうにょ)が紀州雑賀の鷺森へ退城した。あらかじめ雑賀や淡路島の水軍衆が迎えの船団数百艘を大坂湾から大川・堂島川(淀川)に出し、支城や出丸の兵たちもみなそれに乗って海上に去ったという。朝から行われただろう撤収が完了したのは、未刻(ひつじのこく、午後2時)頃だった。

 ところがこの直後、変事が起こる。城内から火が出たのだ。火は折からの風に吹き熾(おこ)されてまたたく間に燃え広がり、3日3晩炎上し続け石山城を焼き尽くしてしまった。

 「信長公記」はこの火災について退城する教如ら一行の松明の火の粉が燃え移ったとし、一説にはこれが城接収の責任者、佐久間信盛の失態だと怒った信長が10日後に信盛を追放する主因になったともされているが、それはない。

 たしかに信盛は本願寺攻めの担当司令官ではあったが、接収に関しては信長と本願寺の講和をあっせんした正親町(おおぎまち)天皇の勅使のあいさつを信長に取り次ぎ、勅使と一緒に出向いて本願寺の明け渡し交渉を最終確認しただけだ。

 実際の交渉責任者は信長側近の奉行衆、矢部家定で、彼は前日の1日以前から本願寺側とシビアな駆け引きを行い、信長に「開城を急がせろ」とハッパをかけられ、この日の開城合意にこぎつけていた。

 接収検分も彼が担当者だから、石山城に不測の事態が発生すればそれは家定に責めが及ぶ案件だ。

 何しろ、織田軍を11年にわたって寄せ付けなかった難攻不落の堅城・名城の全域へ一気に火が広がるには、あらかじめ火薬や油などを各所へセットしておかなければならない。本願寺側がそんな仕込みをしていたとすれば、検使としてそれに気付かなかった家定は信長から斬首されても仕方ない失態ということになる。

 しかし、実際には家定におとがめは何もなかった。彼は18日後に大和国に出張して城破(しろわり、城砦の破却)の指揮管理役を務め、その後も信長お気に入りの筆頭側近衆の一人として活動している。

 そんなわけで、信盛の追放は石山城の炎上が理由ではなかった。22日頃に信盛に渡した折檻状に「大坂本願寺を大敵と恐れて攻めることもせず調略活動も行わず、ただ城の守りを固めて何年もムダに過ごした」とあり、24日付けの大和の筒井順慶宛て朱印状に「(佐久間信盛は)大坂向けの働き、不届き」とあるように、信盛の罪はあくまでも攻囲作戦における消極性によるものとされ、石山城焼失については彼に責めを負わせるような態度をとっていない。
岐阜県大垣市の施設内にある信長像(iRONNA編集部撮影)
岐阜県大垣市の施設内にある信長像(iRONNA編集部撮影)
 そもそも、信長は石山城の焼失を本当に惜しんだのだろうか?