橋本唯隆(教育ジャーナリスト)

 今、日本は新型コロナ禍という未曽有の危機に直面している。こうした危機においては、すでに報じられているように、自粛や感染対策を巡って非難するなど「道徳感の欠如」といえるような行為が相次いでいる。そこで本稿では、道徳や道徳教育の本質について考察したい。

 記憶に新しい方も多いと思うが、2019年10月に発覚した神戸市立小学校における「教師間いじめ事件」は、道徳観の欠如を象徴するような出来事であった。まさに道徳教育をする側がいじめに加担した悪しき例である。

 この事件で重要なのは、周囲の同僚教師や上司も発覚以前から知っていたことだ。こうした状況の中で、加害教師は、日ごろから子供たちに「いじめは犯罪、決して許されない」などと説明していたはずである。

 神戸の教師間いじめ事件は、道徳の授業を行う「教師」で、「やるな!」と言うべき立場にありながら、なぜエスカレートしたのか、不思議ではないか。だが、そこに道徳教育に関する問題の本質が潜んでいる。

 管見ながら、いじめ事件がなくならない理由は、煽(あお)り運転やパワハラ、セクハラ、DV(ドメスティック・バイオレンス)、虐待などと同じ、いけないと分かっていてもやめられないからだろう。

 人間は誰しも、楽しさや愉快さや快感、感動を求めて生きる。もっとも、まともな人間は、自分の課題や夢、目標、志の実現を目指し、その達成に喜び、感動を見いだす。しかし、その実現には、大いなる努力が必要で、課題が困難であればあるほど、失敗も挫折もある。

 だから、実現は困難なことが多い。それゆえ皆、やりたがらない。徒労に終わるかもしれないリスクが、常にあるからだ。人間は、困難や苦痛をなるべく避け、喜びを見いだすための次の手段として、気楽な趣味や娯楽に向かう。

 それにだって、人より秀でたものを持ちたいと願えば、相応の努力がいるし、時間も金もかかる。上達には苦痛も伴うだけに、それも簡単にはできない。ゆえに、それにも満足できない人間は、いけないことと分かっていて、最も安易な手段として飲酒やギャンブル、淫行、薬物に走る。快感を得ることに、何の工夫も努力も必要としないからである。

 それに類するものが、いじめや煽り運転、パワハラ、セクハラ、DV、虐待などだ。これらはすべて、他人の苦しむ姿を見て、無上の喜びを感じ、安易かつ楽に快感を得ることができるのである。周囲を見回すがいい。一度、その味を知った人間は何度も繰り返しているではないか。

 まさに「嵌(は)まる」のである。だから、人間は簡単に依存状態に陥るのだ。「自分はそんな下劣な人間ではない」と多くの人は思うだろう。だが、テレビドラマの「家政婦は見た!」シリーズで、人がうらやむ上流階級家族の崩壊や争い、不幸などを見て、「楽しい」と感じる自分はいないか。多くの人間が、それを楽しんでいるゆえにシリーズになるのだ。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 また、嫉妬心のない人間がいるだろうか。自分の身近な人が自分よりはるかに上に行こうとするとき、一緒になって喜んでくれる友こそ真の友だ。だが、そうすることなく、逆に羨み、引きずり降ろそうとしたり、あるいは、その人自ら転落してしまったとき、それを見て喜び、喝采する悪魔の自分がいる。