こうした悪魔は誰の心の中にもいるのである。他人の幸福が許せず、嫉妬に狂う悪魔、逆に、他人の不幸が楽しく、喝采する悪魔が、誰の心の中にもいる。それに焦点をあてない道徳教育は形骸化し、単なる価値の押し付けとなったりするのである。決して、そうさせてはならないが、では、どうすればいいのか。

 多くの教師が、新任のころ「子供たちから、信頼され、慕われる、いい先生になりたい」と願いつつ、清新な志を持って着任し、日常の勤務にあたっていたはずである。

 ところがどうであろうか。年月の経過と共に、「いい先生になりたい」と願っていた自分が、知らぬうちに、「いい先生だと思われたい」自分に変容していることに気づいているだろうか。前者は、「いい先生とは何か?」を自ら問い続け、その在り方を追求するなど、果てしない努力が必要とされる。

 すなわち、それは「あるべき自分」を追い求める、終わりない自己修養の茨(いばら)の道である。そこには、ハッキリしたゴールも明確な答えもない。しかし、後者は、修養などいらず、他人の目ばかりを気にして、「自分がどう見られる、思われるか」だけを気にするのである。

 そして他人の目さえなければ、エゴ丸出しの自分に豹変する。この後者こそ、「現実の自分」だ。そして、この2人の自分の懸隔や変容に気付き、「どっちが本当の自分か?」とか「自分は二重人格か、せめてこの差を縮めねば…、ならば立派なことを言うのは控えるべきではないか」などともがき、葛藤することが道徳である。

 そしてさらに、その2人の自分の差、懸隔、変容に気付くか否かが、道徳性の高さ、低さなのである。まさに他人の目を気にするよりも、自分の在り方に対する自分の目の厳しさこそ、道徳性なのだ。

 教師のことばかり、あげつらって申し訳ないが、この問題は、教師にとどまらない。「いい政治家になりたい」「国家、国民のための官僚になりたい」と願う人間も同様だ。公務に就く人間だけではない。「顧客第一を願う営業マンでありたい」と言って、入社した民間企業の社員らも同様である。人間は、変容、豹変するものだ。「きれいごとだけ、言ってて、飯が食えるか!」と。

 職業に関係なく、人間の行動は、知らず知らずのうちに、人の目のあるなしで大きく変わる。人の目があれば、絶対にやらないことも、それがないとなれば、勝手気ままにやるし、「自分がやった」とバレないなら、めちゃくちゃにやりがちになる。

 ゴミの不法投棄などは、まさにその好例である。ネットでも実名なら、正論の立派なことを言うくせに、匿名だと、相手に対して悪魔のごとき罵倒を浴びせるのも同じだろう。

 人間は、自分のやるべき義務や役割、守るべき最低限のルール、一線から逃げ、やりたいことだけに浸り、嵌まるなら、確実に身を滅ぼす。だからそこで、道徳教育が必要になると考える。
※画像はイメージ(ゲッティイメージズ)
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 そもそも、「なぜ、いじめは許されないのか?」と聞かれ、ある有名な教育評論家はこう言う。「いじめは犯罪なんです。法律で禁止されてるんです」と。これは違う。なぜなら、法律で合法化されれば、許されることになるからだ。法律を前提に話しても、どうにもならない。