渡邊大門(歴史学者)

 最近は流行らなくなったが、少し昔のビジネス雑誌をひも解くと、戦国時代の「軍師」をモデルにして、いかにビジネスを成功させるかといった記事をよく目にした。

 たとえば、豊臣秀吉の「軍師」だった黒田官兵衛(孝高、如水)は、「偉大なるナンバー2」と持ち上げられ、「ナンバー2」の美学なるものがまことしやかに語られた。しかし、戦国時代に「軍師」なる言葉はなく、「鶴翼の陣」などの陣形も嘘と考えたほうがよさそうだ。それらは、いい加減な史料に書かれたもので、信用に値しないのである。

 以下、「軍師」などについて考えてみよう。

 わが国では、座学としての戦争研究が発達していた。これは事実である。戦国大名には刀、弓、槍、鉄砲などの鍛錬が必要である一方、座学である兵法書を読むことも重要だった。「論語」「中庸(ちゅうよう)」「史記」「貞観政要」などの中国の古典が代表的なものである。

 また、「延喜式(えんぎしき)」「吾妻鑑(あづまかがみ)」といった日本の典籍など、為政者としての心得を学ぶための書物も含まれていた。ただ、戦国大名がそのまま読むには難解だったため、公家や僧侶から講義を受けることもあった。

 兵法書には、武経七書と称される「孫子」「呉子」「尉繚子(うつりょうし)」「六韜(りくとう)」「三略」「司馬法」「李衛公問対」が代表的なものとして存在する。それらの兵法書は、すでに奈良・平安時代に日本に入っていたといわれている。しかし、これらの書物は日本の古典と同じく難解で、とても戦国武将がすらすらと読めるものではなかった。

 室町時代には足利学校(栃木県足利市)という儒学などを学ぶ機関があり、その卒業生が戦国大名に兵法書の講義をした。

 小早川隆景は、足利学校出身の玉仲宗琇(ぎょくちゅう・そうしゅう)と白鴎玄修(はくおう・げんしゅう)の2人を、鍋島直茂も不鉄桂文(ふてつ・けいもん)を招いていた。直江兼続のもとには、足利学校出身の涸轍祖博(こてつ・そはく)がいた。

 徳川家康のブレーンである天海も、足利学校の卒業生である。実際には、彼らが兵法書の解説などを行っていたのだろう。

 足利学校の歴史が明らかになるのは、室町時代中期頃である。鎌倉から禅僧の快元を招き初代庠主(しょうしゅ、校長)とし、学問の興隆と学生の教育に力を入れた。

 その後、関東管領の上杉憲忠が易経「周易注疏」を寄進し、子孫の憲房も貴重な典籍を送ったという。永正、天文年間(1504~54)には約3千の学徒が在籍したといわれている。天文18(1549)年に日本を訪れた宣教師のザビエルは、「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」であると足利学校を称えたという。
史跡足利学校内の庫裏(手前)などの建造物=栃木県足利市 (川岸等撮影)
史跡足利学校内の庫裏(手前)などの建造物=栃木県足利市 (川岸等撮影)
 足利学校は軍師養成学校と称されるが、それは大きな誤解である。足利学校で学んだ僧侶は中国の古典に優れ、また軍配の際の占いや易学に精通していたので、そう呼ばれたにすぎない。