橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 天正9(1581)年1月8日、織田信長の正月イベントは御爆竹(おんさぎっちょう)=左義長(さぎっちょう)として行われたわけだが、現在でも続く神社でのお焚き上げやどんと焼きのような左義長とは様相が異なったようだ。

 近江八幡の八幡山城のふもとにある日牟禮(ひむれ)八幡宮では、信長による安土の左義長を継承したという「八幡の左義長」が現在も連綿と続いている。それは左義長と呼ばれる青竹やわら、干支にちなんだ飾りで組まれた山車同士を激しく衝突させ(左義長のけんか)、最後の夜にはその左義長に火を放つという派手なものだ。

 水分を多く含んだ青竹は火によって大きく爆(は)ぜる。おそらく信長の時代も破裂音が炸裂したのだろう。

 熱狂した観衆がどっと喚声を上げて囃(はや)し立てる中を、黒の南蛮笠(とんがり帽子形で、ぐるりと周囲につばをめぐらせた笠)に天上眉を描き、紅い公家装束に唐錦の袖無し羽織、虎皮の前垂れという何とも〝映え〟でシュールな出で立ちの主役、信長以下が馬場を駆け回る。中には爆竹の音に驚いて暴れる馬もあっただろう。

 それを見事に御する馬乗りには万雷の拍手が贈られたに違いない。それはあたかもスペイン・バルセロナのメルセ祭りや中華圏の元宵節、アメリカのロデオを一緒くたにしたパレードだったというべきか。

 ひとしきり馬場で暴れた信長は左義長に火を点けさせると大盛り上がりの中をそのまま町中にも馬を繰り出し、見物の大衆を熱狂させた。こちらは、まるでF1のモナコグランプリを連想させるような光景だ。

 こうして、いかにも信長らしい豪快で賑やかなイベントが挙行されたわけだが、この信長流左義長、5年前に彼が安土城の建設を開始して以来、これが初めての開催だった(少なくとも「信長公記」にはそれより以前に実行された記述は見当たらない)。なぜ信長はこの天正9(1581)年というタイミングで左義長を開催したのだろうか。
左義長まつりで、日牟禮八幡宮を出発する山車=2015年3月、滋賀県近江八幡市(甘利慈撮影)
左義長まつりで、日牟禮八幡宮を出発する山車=2015年3月、滋賀県近江八幡市(甘利慈撮影)
 左義長は昔も今も、火によって厄を祓う行事。信長のそれも、魔除けの意味が込められていたことは間違いない。

 ただ、いくら魔除けオタクの信長とはいえ、彼は1月1日に側近の長谷川秀一ほかに命じて馬場の設営工事を開始させ、8日に開催告知を出し、15日のイベント当日を迎えている。元関白の近衛前久や元室町幕府重臣の伊勢貞為、織田家一門衆、近江衆を動員するという大がかりなものだから、とても伊達や酔狂だけで唐突に実行できるものでもない。これだけ大がかりなイベントを特に差し迫った必要もなく、わざわざ実行するとは考えにくい。

 では、信長の真の狙いは何か。