中村逸郎(筑波大教授)
2020年8月20日、ロシア・西シベリアのトムスク市から発したモスクワ行きのS7航空2614便に搭乗していた反体制指導者でブロガーのアレクセイ・ナワリヌイ氏は、離陸から30分後に気分が悪くなりトイレに駆け込んだ。同氏はその直後、意識不明の重体に陥る。
「ウォー…ウォー……」と、彼のものと思われるうめき声が機内で響く。
「アレクセイ、飲むんだ、息をしろ」、必死に薬を飲ませようとする仲間たちの叫び声。
そこはまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の様相だった。なお、この顛末の詳細は、拙著「ロシアを決して信じるな」(新潮新書)を参照されたい。
このナワリヌイ氏に対する惨劇は、今年1月に入ってからロシア全土で繰り広げられた反政権集会の引き金となる。ロシア出身の在米化学者であるビル・ミルザヤノフ氏は昨年9月10日、ロシアの人気ラジオ局「エーホ・モスクワ(モスクワのこだま)」のインタビューで以下のように断言している。
「ナワリヌイ氏の症状はノビチョクによる症状と似ています。18年にロンドンに住むロシア情報機関職員だったセルゲイ・スクリパリ氏に使用されたノビチョクA-234よりも毒性が強力なものだったかもしれません。ノビチョクを製造できるのはロシアの国立研究所だけです」と同氏は述べている。そしてこの毒物が世界に知れ渡るようになったのは、このスクリパリ氏暗殺未遂事件がきっかけなのだ。
実はこのミルザヤノフ氏は、ノビチョクの開発者の一人でもあった。この毒物は旧ソ連時代の1970年代前半に開発が始まったが、実態については20年近く国家秘密として隠されてきた。ソ連崩壊直後の92年、反ソ連体制派の科学者たちはノビチョクが化学兵器であることを告発しようと試みたが失敗に終わった。その一人が彼だったのである。
意識不明となったナワリヌイ氏はロシアから飛行機でドイツのシャリテー・ベルリン医科大に移送され、自力で呼吸できるまでに回復し、一命をとりとめた。

現時点ではノビチョクが本当に使用されたのかどうか、決定的な証拠はドイツやロシアでも公表されていない。推測の域を出ないが、疑惑にとどまるからこそ逆にロシアらしい怪奇な仕業といえる。
ロシアのメディアはナワリヌイ氏を含めて事件や事故を大々的に報道することがあっても、真実を報じることはないと私は思う。ロシアでは、真実はニュースにならないからである。