だが、私の大河ドラマ批評が厳しくなるのは、「大河ドラマ愛」があるからだ。ちょうど、目を掛けたスポーツ選手に「君はやったらできるんや!」と、叱責しているようなものである。とはいえ、今では厳しい叱責がパワハラになるのだから、私のしたことは時代遅れだったのかもしれない。

 私なりに考えると、大河ドラマにはいくつかの問題があると思うのである。以下、そのうちのいくつかを挙げておこう。

 最も重要なことは、大河ドラマがフィクションであることを明確にすることだ。時代考証者の存在が重要なのは承知しているが、あまりに前面に出すぎかもしれない。最新の研究を反映させている面は評価するものの、そういうことを強調するのはいかがかと思うのである。

 歴史の研究をしていると分かることだが、歴史上のあらゆる出来事を信頼できる史料(一次史料)で調べ尽くすことはできない。極端に言えば、分かることよりも分からないことのほうが圧倒的に多い。

 大河ドラマに限らず、歴史ドラマは一定の史実を踏まえながら、「主人公はこう考えたに違いない」などと想像力と創造力を働かせることが肝要になろう。しかし、そこには時代の雰囲気を伝える配慮が必要ではないだろうか。したがって、部分部分で「最新の研究成果」を強調することに、何か意味があるのかと思ってしまう。

 いつも思うのは、大河ドラマの主人公のキャラクターがワンパターンなのである。ワンパターンというのは、おおむね次のように整理できる(戦国時代のものに限る)。

(1)主人公は、常に正義の人であること

(2)主人公は乱世にあって、平和な時代を築こうとしたこと

(3)主人公は、民衆思いで慕われていたこと

 これにドラマの性格の困った点を挙げると、概してホームドラマであることと、ときにコント仕立ての脚本であること、になろう。

 などなどであるが、要するに主人公は「良い人」なのである。それは、現代の価値観から見たものであり、いささか辟易するのだ。

 なぜ、そうなってしまったのかは不明であるが、主人公の地元への配慮、野心でギラギラした主人公では具合が悪かったのかもしれない。しかし、盛んに主人公が「平和な世を築くのだ!」と連呼すればするほど、大変申し訳ないが、私にはうそ臭く聞こえるのである。

 終了した「麒麟がくる」の光秀のケースで言えば、比叡山の焼き討ちに出陣していたこと、丹波八上城攻めで残虐な行為を行っていたことは周知のである。それは、当時の戦国武将として、さほど珍しいことではなかった。

 しかし、ドラマの中の光秀は、比叡山の焼き討ちで女、子供、僧侶を逃がしていた。本当にそんなことがあったと想定できるのか。

 つまり、戦国時代という時代性を考慮すると、いたずらに主人公を「良い人」に仕立て上げるのは、問題があると言わざるを得ないのである。

 たとえば、戦時中のユダヤ人虐殺を扱った映画に「シンドラーのリスト」がある。これは何度見ても感動する映画だ。なぜ感動するのかといえば、最初はタダでユダヤ人をこき使って金儲けをしていた主人公は、やがて自分のやっていることに疑問を持つようになり、自分はどうすべきか苦悩する。決して最初から良い人として描くのではなく、等身大の人間像を描いていることになろう。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 そして、また描写も残酷である。ナチスがユダヤ人を並べて銃殺するなど、悲劇そのものだが、かえってドラマの信憑性なりを際立たせている。残酷な事実に目を背けることがあれば、誰もこの映画に共感しないのではないだろうか。