議長のねんざで?本会議採決

 昭和三十五年二月、衆院に一月に締結された新日米安保条約を審議するための安保特別委員会が設置された。委員長は小沢一郎新生党代表幹事の父である小沢佐重喜(故人)、自民党の委員のひとりに加藤紘一自民党政調会長の父である加藤精三(同)がいた。

 当時産経新聞の外務省担当記者で、後に藤山愛一郎の秘書になる山本保(六四)=現エフエムジャパン相談役=によると「野党が委員長のところに詰め寄ったりすると、加藤さんが大声でやじを飛ばして助け舟を出す。いいコンビだった」という。

 当時まだ当選二回、三十代の若手だった、社会党の石橋政嗣(七○)=後に社会党委員長=は、同党の十三人の委員の一人に抜てきされる。防衛問題の専門家だという理由からだった。先輩の委員たちがひと通り質問を終えた五月の連休明け、石橋はひとりで三日間連続質問に立つというタフネスぶりを発揮、社会党の「安保五人男」に数えられる。

 「ところがね、妙なことにこの五人男というのが人によって違っていた」と石橋はいう。通常は石橋のほか黒田寿男、岡田春夫、松本七郎、飛鳥田一雄(いずれも故人)ということになっていたが、これでは、論戦の先頭にたっていた横路節雄(故人)が抜けてしまう。横路を入れて他の一人を落とす数え方もあったという。

 「でも、次の委員会で政府をどう攻めるかという作戦はいつも横路さんを除く五人だけで、党内にも内証でやっていた。松本さんの自宅とか秘密の場所を転々としながら。後で気付いたら僕を除く四人は皆、平和同志会系だった。僕はまだペーペーだったから構わなかったが、横路さんは(平和同志会でなかったから)入れなかったんだな」

 平和同志会は社会党の中で最左派といわれていた派閥である。党を挙げての安保反対といっても、実態は左派主導だったことがわかる。

 その作戦会議から出た一つの戦略があった。安保条約については徹底的に問題点を洗い出した社会党だが、条約と同時に締結された「在日米軍に関する地位協定」についてはあえて議論しなかったことだ。

 「政府や自民党は『審議はつくした』といって採決しようとするのは目に見えているから、『まだ地位協定については何もやっていないじゃないか』と採決を延ばす理由にするつもりだった」という。

 だが、石橋の三日連続質問が終わったあたりから自民党は採決の構えを見せはじめる。

 五月十七日朝、当時、清瀬一郎衆院議長の秘書官だった自民党衆院議員、戸井田三郎(七六)は、九段の自宅から散歩をかねて靖国神社に参拝する清瀬に付き添っていて、「きょう自民党の党籍を離れるから手続きをしてくれ」と指示される。

 議長の党籍離脱はあっと言う間に広まり、「議長が覚悟を決めた。いよいよ強行採決か」と緊張が高まる。
安保改定阻止を掲げ、国会議事堂周辺を埋め尽くす群衆。全学連主流派はこの後、南通用門から国会に突入した=昭和35年6月、国会議事堂(本社機から)
 そして五月十九日。午後十時半、衆院本会議開会のベルが鳴った。だが、二階の本会議場と議長室の間は社会党の議員や秘書たちが座り込み、清瀬が本会議場に入るのを阻止する。

 戸井田はこうした事態も予想して、あらかじめ国会内に聞こえる院内放送を議長室からもできるよう手配しておいた。清瀬はこの院内放送を通じて議長室から訴える。「名誉ある議員諸君、このままでは議長の行動も自由になりません」

 これより前、三階の衆院第一委員室では小沢佐重喜が社会党委員から背広を破かれ、もみくちゃになっていた。安保特が強行採決で安保条約を承認したのだ。社会党議員たちは一段とエキサイトする。廊下ばかりでなく、議長室の次室や事務総長室まで占拠してしまい、ますます身動きはできなくなる。

 午後十一時五分、清瀬はついに警官導入を要請する。ピストルを外した警官隊は議員や秘書をごぼう抜きにし、一階まで降ろす。

 十一時四十九分、清瀬は金丸信(元自民党副総裁)や長谷川峻(故人)ら自民党若手議員に抱きかかえられるようにして三メートルばかりの廊下を突っ切って本会議場の議長席へ突入する。ゴボウ抜きされた後戻っていた社会党議員が清瀬の足にしがみつく。

 「五十日間の会期延長に賛成の方は挙手を」-背後を金丸信らに守られた清瀬のひとことで会期延長が決まった。

 戸井田らの話を総合すると、清瀬の意向としてはこの場はこれで終わり、安保採決までは行わないとの考えもあった。ところが、思わぬできごとが起きていた。議長席への突入のさい、清瀬が足にねんざをし、動けない状態になっていたのだ。いったん議場を出ればもう一度入れるかどうかもわからない。

 清瀬は議長席に首相の岸信介や自民党幹事長の川島正次郎、衆院議院運営委員長の荒舩清十郎らを呼び協議する。その結果、自民党議員や閣僚が残ったまま二十日未明に再開した本会議で一気に安保条約を承認した。野党ばかりでなく、自民党の三木武夫(後に首相)らも欠席したままだった。

 戸井田はこの十九日から二十日にかけての動きを「全くシナリオはなかった」と強調する。これに対し石橋は「六月十九日のアイゼンハワー大統領訪日が決まっており、それまでに自然承認できるよう、何が何でもこの日に採決しようとした」という。関係者がほとんど亡くなっている今真相はわからない。

 戸井田によると、清瀬は「自分は自民党の手先でやったと思われたくないから党籍離脱までした。だから一点のやましいこともない」といっていたという。(文中敬称略)

 【メモ】 改定の主な争点 安保条約改定をめぐって、国会の衆院安保特や国会外での論議で主な争点となったのは、改定の肝要である片務性解消よりも(1)極東の範囲(2)事前協議(3)条約の期限-などだった。特に、国会論戦の中心となった「極東の範囲」とは条約六条に、米軍は日本の安全ばかりでなく「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」日本の「施設及び区域を使用することを許される」としていた。このため、社会党などは「日本がアジアでの戦争に巻き込まれる恐れがある」とし、極東の範囲を示すよう迫った。しかし、この点に関する政府の答弁は二転三転するなどあいまいで反発を強めたが、「極東の範囲を明示することは外交上無理」との主張もあった。
 また、六条実施に関する交換公文の中で、「米軍の日本配置の重要な変更」など3項目について事前協議が行われると明記されたが、具体的にどのように協議が行われるのかなどの疑問点が残された。条約の期限については学者・文化人などから「10年は長すぎる」として「5年」を主張する声があったが、政府は「10年」で押し通した。

包囲され「三界に家なし」の岸首相 

 昭和三十五年五月二十日未明、警視庁警務部長の原文兵衛(八一)=現参院議長=は警視総監、小倉謙(故人)らとともに警視庁の警備本部に待機していた。十九日深夜、清瀬一郎衆院議長の要請で国会に警察官を導入したからだ。

 だが、衆院本会議で会期延長だけでなく、新安保条約が自民党単独で可決承認されたことがわかる。原は「会期延長だけだと思っていたから、これは大変なことになると予感した」。

 原の予感通り、自民党の単独採決によって安保反対運動はそれまでよりもはるかに大きな勢いで燃え広がる。六月四日に社会党など「安保改定阻止国民会議」の第一次実力行使が行われ、全国で六百四十万人が参加したのを始め、国会周辺は連日デモ隊に埋め尽くされる。

 原は毎日、私服で歩いてみて回る。デモ隊の列は国会から首相官邸を過ぎて、渋谷区南平台の岸信介首相の私邸にまでつながっていた。

 岸の秘書官だった和田力(七六)によれば、このころになると岸は「三界に家なし」の状況になる。

 「官邸でも私邸でも、一番困るのは門の前に座り込まれること。出られなくなるから。警察の無線を聞いて、デモ隊が官邸に向かっているようだと、南平台へ向かう。といっても、行くところはその二カ所と国会内の自民党総裁室しかないから、その三カ所をぐるぐる回っていた。車に乗っていても襲われる恐れがあるので、私ともう一人の秘書官の中村(長芳)君の二人が岸さんの両脇に乗って守っていた。私は役所(外務省)からきた人間で岸さんの子分でも何でもないんだが、仕方がなかった」

 清瀬の秘書官だった衆院議員、戸井田三郎(七六)によると、清瀬も国会をデモ隊に包囲され、西側に入り口があった秘密のトンネルから国会に入ったことがある。

 ある日、岸の側近だった自民党の池田正之輔(故人)が戸井田を訪ねてきた。「議長がもし国会に入れなくなると困るから、中で泊まってもらえないか」という。宿舎に充てようとしたのは、終戦時に陸相官邸として使われていた高級副官宿舎。阿南惟幾陸相が二十年八月十五日自決した所で、国会内に残されていた。

 「きれいにしていたけれど、議長がトリックを使うようなことはよくない、ということで結局泊まり込まなかった」