「中身など誰も知らなかった」デモ隊


 反対運動の最大のヤマ場となった六月十五日夜、全学連中央執行委員で東大教養部自治会委員長だった評論家の西部邁(五五)=元東大教授=は、約七千人にのぼる全学連主流派を指揮して国会内に突入していた。

 この事件で七月に逮捕されたあと運動を離れ、アカデミズムの世界に入る西部は「やってしまったことはしゃべる義務があるから」と重い口を開き、当時の空気をこう証言する。

 「国会内に突入したからといって、どうしようというわけでもなかった。それで安保改定を阻止できるとも思っていなかった。大体、安保改定の意味などわかっているのはだれもいなかった。警察官と激突することに意味があったようなものだった。もっと手薄な所のさくを越えれば簡単に国会内に入れるのに、わざわざ警官の多いところにぶつかるわけです」

 西部が国会内でしきりにアジっていたころ、「国会南門のあたりで八人が死んだ」などといううわさが学生たちの間に流れ始めた。やがてそれは「女子学生らしい」となった。

 「女子学生と聞いたとき、直感的に樺(美智子)さんではないかと思った。東大の一年上で、マジメな左翼のお姉さんという存在だった」と西部はいう。

 もっとも、亡くなったのが東大文学部生の樺美智子=当時(二一)=だったことを知るのは翌朝になってからだった。西部も腹をケガし、国会周辺は異常なまでに混乱していた。

 当時東大二年生だった現自民党政調会長の加藤紘一(五五)もこの日、首相官邸の坂道を下ったあたりでデモに参加していて樺の死を知る。「女子学生が死んだらしいといううわさが冷たい風のようにサーッとデモ隊を流れていった」

 デモの最中、加藤は偶然にもやはりデモに参加していた兄と出会い「オー」と声を掛け合ったこともあり、この日のことをよく覚えている。

 加藤の父の精三(故人)は自民党の国会議員で安保特の委員だった。

 当時、同居はしていなかったが、赤坂の議員宿舎の父の所へ行くと「アメリカと仲よくすることがどうして悪い」と言われる。

 だが、大学に行くと「安保に反対しないのは、去年、国会で選挙制度改革に反対するのと同じぐらい難しかった」。

 加藤はこう振りかえる。「安保の中身を知っている者は百人に二人もいなかった。だから安保闘争は安保改定論議ではなかった。しかし、人々が自分のことだけでなく、ようやく社会のことを考え出したことに意味があった」

 西部は安保闘争について「中には革命まで夢見ていた人もいたが、僕はそれはバカだと思う。権力を握るなど考えもつかないことだった。僕自身は“平和と民主主義”という戦後の価値観のバケの皮をはがしてやるという気持ちでやっていた」という。

 西部や委員長、唐牛健太郎(故人)をはじめ、当時の全学連幹部のほとんどは安保が終わるとともに運動を離れた。安保闘争に参加した学生たちも、砂にまかれた水のように、高度経済成長の社会の中に吸い込まれていった。

 西部は昭和六十二年、岸が亡くなったとき「中央公論」に「あなたは正しかった」という弔文を寄せた。(文中敬称略)


 【メモ】 全学連と安保闘争 全学連(全日本学生自治会総連合)は当初、日本共産党の指導下にあったが、共産党の方針にあきたらない活動家らが昭和33年、共産主義者同盟(ブント)を結成、34年には執行部を握った。さらに35年の大会では共産党系の反主流派を締め出すなど、事実上の分裂状態となった。
こうした状態で迎えた安保闘争で、主流派(ブント系)は、共産党への反発もあって34年11月27日の国会乱入をはじめ、35年1月の羽田空港占拠、首相官邸乱入と次々と過激な反対行動を展開、「ゼンガクレン」として世界的にも名を知られることになった。しかし、安保後はその主流派も四分五裂していく。
これに対し反主流派(共産党系など)は安保闘争では反米的な傾向を強め、35年6月10日のハガチー事件の中心となった。




 岸内閣の農相だった元首相、福田赳夫(八九)は昭和三十五年五月二十日、一カ月余りに及んだモスクワでの日ソ漁業交渉からの帰り、飛行機に乗り込む前のパリの空港で新聞を渡されて驚く。日本の国会で会期延長されたばかりか、安保条約も衆院で強行可決されていたからだ。

 岸の側近だった福田は四月にモスクワに出発する前、岸に「会期延長だけにしてください」と進言。岸も「勿論だよ」と答えた。それだけに福田は「飛行機の中でも半信半疑だった」という。

 東京へ帰った福田は農相でありながら、安保騒動が終わるまでついに一度も農林省に顔を出さなかった。あまりに大物すぎて根回しなどの小技はできない官房長官の椎名悦三郎(故人)に代わって、事実上の官房長官役をつとめたからである。

 衆院での強行採決で、安保反対と岸内閣打倒の大衆行動が激しさを増す中、最大の問題はアイゼンハワー米大統領の来日問題だった。そして、十日にハガチー事件が起きる。

 大統領来日の事前打ち合わせにきたハガチー・新聞係秘書の車が羽田空港出口の弁天橋で全学連反主流派(日共系など)や労組員らに取り囲まれて立ち往生、米海兵隊のヘリで救出されたのだ。

 この事件で、来日を疑問視ないしは危険視する声が強まる。

 岸と駐日米国大使のマッカーサーは終始、来日実現に強気の姿勢を崩さなかった、とされている。が、福田によれば少し違った。

 「岸さんは僕に『何とか米側から日程変更を持ち出すようマッカーサーと交渉してくれ』という。紀尾井町の料理屋で何度かマッカーサーと会ったが、向こうは応じない。そのうちハガチー事件が起き、樺美智子さんの事件が起き、岸さんも最終的に日本側から申し出ることを決断した」

 一方、警視庁警務部長だった参院議長の原文兵衛(八一)は、アイク訪日に備えその警備計画を練っていた。警察部内には柏村信雄警察庁長官をはじめ、訪日中止論も強かったが、政府や米側が断念しない以上、準備はしなければならない。警備部長の玉村四一(故人)は、国会や首相官邸の警備指揮で手一杯だったため原が引き受けたのだった。

 ハガチー事件二日後には、前夜徹夜で作り上げた警備計画によって予行演習を行う。羽田から第二京浜国道を通り、日比谷公園の前から皇居まで三十八分で走り、その後宿舎の米国大使館までのコースで、沿道には二万数千人の警察官を動員する予定だった。

 「私が責任者として車列につく。外務省の参事官だった北原秀雄さん(元フランス大使)に私のすぐ側にいてもらい、何かあったら米国側との連絡役になってもらうことまで決めていた」という。原はその著書「元警視総監の体験的昭和史」(時事通信社)の中で「仮に途中でトラブルがあって若干停滞することがあっても、十分守り通すことができる、という感じを持った」と書いている。

 だが、首相秘書官だった和田力(七六)は「警察は最初からやる気はなく、訪日を延期させたがっていた」という。

 ハガチー来日の前日、外務省で国賓を迎えるための会議が開かれ、和田は内閣首席参事官だった梅本純正(七六)=後に環境事務次官、現武田薬品相談役=と傍聴に行く。和田は「出席していた警察側が『アイゼンハワーさんは来ることないじゃないですか』などという。これはとてもいけないなと思った」という。

 それだけに和田はハガチー事件について、「警察はアイク訪日が無理だということを見せようとしたのではないか」という。「そうでなければ、あの弁天橋のところに最も精強な労組を入れたのはおかしい。無論証拠はないし、皆否定するだろうけど」

 しかしそうしたせめぎ合いも、六月十五日、デモ隊に初の犠牲者が出るに及んで終止符が打たれる。翌十六日政府は臨時閣議でアイゼンハワー大統領来日延期要請を決める。これで日米安保条約は十九日の自然承認を待つばかりとなったが、同時にこの外交上の大汚点で、岸内閣の命脈も断たれた。

 六月十九日午前零時、新安保条約は参院で採決されないまま自然承認となった。岸は実弟の蔵相、佐藤栄作らとともに、デモ隊に包囲された首相官邸でその瞬間を迎え、一歩も外に出られないまま一夜を過ごす。

 その夜、福田は岸からある密命を帯びて官邸をそっと抜け出した。ネクタイをはずし、まるでデモ参加者のような格好をして赤坂プリンスホテルへ向かった。そこには副総裁・大野伴睦、総務会長・石井光次郎、政務調査会長・船田中の自民党幹部三人が待っていた。

 実は政府が自然承認後に出す声明に、岸の「辞任表明」を盛り込むよう三役側が求めており、福田は「それはできない」という岸の答えを伝え説得するためだった。党側の言い分は、自然承認となってもまだこれから批准書の調印と交換という大変な仕事がある。首相辞任が明記されれば、デモも低調になり、宮中への出入りも楽になって批准手続きは簡単になるという理由だった。

 「ところがね、岸さんは『批准書のことなら心配はいらない。実はもうハワイで交換しているんだ』と伝えさせた。党側はびっくりしていた。手回しいいなって。もちろん、そんなことがあるはずない。岸さんの大芝居だった」

 永田町全体をデモ隊が埋め尽くす中、早くも次期政権をめぐるかけひきが始まっていたのだ。 (文中敬称略)

 

 【メモ】 安保改定問題をこじらせた背景には、昭和33年の警職法改正問題があった。岸内閣は安保改定作業が具体的に始まったばかりの33年10月8日、警察官の職務質問や所持品調べなどの権限を強める警察官職務執行法(警職法)改正案を臨時国会に提出した。これに対し社会党や労働団体、文化団体などがいっせいに「オイコラ警察の復活だ」などとして反発。社会党は一切の国会審議を拒否した。自民党は抜き打ちで会期延長を行うなどあくまで成立をはかろうとしたが、11月28日、自社両党の党首会談で審議未了となった。
しかし、この混乱で安保改定作業が大幅に遅れたほか、国民の間に激しい「反岸」感情を巻き起こした。その「岸内閣打倒」の空気が、安保条約の本質をよく理解しないまま反対運動につながった面もあった。また、警職法での失点が、自民党内の反主流派を勢いづかせることにもなった。