幻に終わった「西尾政権」 


 新しい日米安保条約は昭和三十五年六月十九日自然承認となった。自民党は翌二十日、抜き打ちで参院本会議を開き、残っていた安保関連法案を成立させ、さらに二十一日には持ち回り閣議で安保の批准を決める。

 批准書は外務省から東京・赤坂見附のホテル・ニュージャパンにあった外相、藤山愛一郎の個人事務所に届けられた。藤山が署名するためである。藤山の著書「政治わが道」(朝日新聞社)によると、外務省から「社会党の松本七郎代議士が探している」という電話が入る。松本は社会党の最左派で安保反対の急先ぽうだった。

菓子折りに見せかけ批准書を運ぶ


 藤山は秘書官だった内田宏(七六)を伴って、青山にあった藤山の夫人の姉の家へ行き、そこでサインを済ませた。内田が振り返る。

 「こんどは首相官邸で総理の署名が必要なわけですが、そこまで届けるのが大変でした。なにしろ、まだそこら中デモ隊でしたから。そこで大臣のお姉さんからできるだけ派手なふろしきを借りて、菓子折りを包んでいるように見せた。私が持って出て、途中待たせておいた車で官邸へ行きました。官邸でも新聞記者に気付かれないよう、“陣中見舞いのお菓子です”といって和田君(和田力首相秘書官=当時)に届けた」

 岸信介首相が署名した批准書は、内閣首席参事官だった梅本純正(七六)=現武田薬品工業相談役=の手でこんどは、宮中に運ばれる。宮中への書類を首席参事官が持っていくのは異例だった。

 梅本は「批准書を奪いにくるといううわさはいろんな所からありましたからね。宮中に行く途中で奪うとかね。だから和田君から何でもない書類のような格好をして受け取り、ちょっと外に出るという格好で行きました。記者のみなさんのそばを通り抜けるのが大変だった」という。

 批准書の交換は二十三日午前十時十分から、白金の外相公邸で藤山とマッカーサー駐日米大使との間で交わされた。午前九時のラジオニュースが終わった九時十分に記者団に予告するという慎重さ。日本側は外務省幹部の朝食会を装い、万一デモ隊がつめかけた場合、マッカーサーが隣家との間の塀を乗り越えて抜けられるように、ビール箱の踏み台まで用意していた。

 あわただしく批准書への署名・交換、シャンパンによる乾杯を終えたあと、藤山は国会へ急ぐ。国会内の大臣室では岸内閣最後の閣議が開かれているはずであり、藤山が批准書交換を報告、これを受けて岸が総辞職を表明するてはずであった。

 だが、藤山はショックを受ける。すでに閣議は終了、大臣室では次の総理を決めるための政府与党首脳会談が開かれていた。藤山は「政治わが道」に次のように書く。

 「なぜ、岸さんは待っていてくれなかったのか。安保改定という国家の命運を賭けた大事である。これだけ、全力をあげて取り組んできたのに…と思った」

 藤山は「全部終わりました。マッカーサー大使も無事大使館に帰りました」とだけ告げ、国会を後にした。

 ところで、この時期岸内閣の事実上の官房長官役をつとめていた農相、福田赳夫(八九)は、アイゼンハワー来日が中止になる前、すでに岸から「総辞職の声明の原案を書いといてくれ」と辞意を伝えられていた。

 「ほんとに総辞職なんですか」と聞くと、「いや決めたわけではないが、念のためだ」とあいまいではあった。福田はさらに「後任はどうするのですか」と聞いた。岸は「それは後の人たちが決めることだ」と答え、逆に「君ならどうする」と意見を求めた。

 福田はとっさに「選択肢はひとつ、西尾さんしかありません」と、その年一月に社会党から分かれて誕生した民社党の委員長、西尾末広(故人)の名前をあげた。安保でガタガタになった政治への信頼を取り戻すなら、西尾政権をつくり、自民党がこれを支えるしかないというのが福田の考えだった。西尾なら労組の大部分も支持するし、社会党もいずれ支持に回るだろう。

 岸は一瞬あぜんとした後、「貴重な意見だが、大野伴睦君(当時自民党副総裁)が同調してくれるかどうか」と言った。

 福田はなぜ大野の名前が出てくるのかいぶかしがった。だが、後に幹事長の川島正次郎から、岸が政局を乗り切るため、「自分の次は大野」という誓約書に署名していたことを聞く。有名な事件である。

 それでも福田は、ひそかに西尾を説得する。知人に使わせてもらった都内の邸宅。お茶と碁盤しか置いていない部屋で、福田は三回にわたり西尾と会い、ポスト岸を受けるよう要請する。福田によると西尾は最初の二回は黙って聞いていたが、三回目に「残念ながら、その要請を受けることは政治家として自殺に等しい」といって断った。

 こうして「西尾擁立」は幻に終わった。福田は「これは全く二人だけしか知らないことだが、実現していれば、今の自社内閣を先取りしていたことになるのだが」と残念がる。

 それから約二週間にわたる自民党内の暗闘の末、岸後継は、岸がいったん約束した大野でもなく、岸とともに安保改定に政治生命をかけた藤山でもなく、官僚派に押された池田勇人に落ち着いた。池田は大平正芳や宮沢喜一ら元秘書官グループの補佐よろしきを得て、「低姿勢」の政治姿勢で「高度成長」といった政策を打ち出し、安保問題から国民の目をそらそうとした。それは見事に成功する。

 そして、日本で正面から安全保障の問題が論じられることはほとんどなくなった。

 (文中敬称略)


【メモ】 誓約書事件 昭和33年の警職法をめぐる国会の紛糾で、自民党内からも批判を受けた岸信介首相は翌34年の年頭、静岡県熱海で党内党人派の代表である大野伴睦、河野一郎の両実力者と会い、今後の政局への協力を要請するとともに、安保条約改定後に政権を大野氏に譲ることを約束した。さらに1月16日には帝国ホテルに岸、大野、河野三氏と岸氏の実弟の佐藤栄作蔵相が集まり、北炭社長・萩原吉太郎、大映社長・永田雅一、児玉誉士夫の三氏の立ち会いで熱海会談の約束を裏付ける誓約書に署名した。35年6月の岸首相引退表明後、大野氏はその約束履行を信じて総裁選に出馬を表明するが、岸首相は池田勇人通産相を支持、大野氏は総裁を断念した。

 岸首相は「岸信介回顧録」の中で「誓約書は河野、大野両氏が私に協力するのが前提で、河野氏が倒閣運動をするなど約束違反した段階で反古になった」という趣旨のことを書いている。