丸山眞男と江藤淳


 具体的な東アジア情勢から始まったこの文章は、1人の女性政治学者を経由して、ナショナリズムの必要性にまでたどり着いた。

 ところで、わが国の戦争体験は、「8月15日」という言葉に集約されていると思う。この日をどう評価するかで、「戦後」への評価も変わる。二つのカギカッコ付きの言葉が、激しい渦を巻きながら激突し、あらたな言葉を生みだしたのが、他ならぬ1960年、安保闘争の季節にほかならない。

 ここでの主役は、丸山眞男と江藤淳である。

 彼らが炙りだした問題は、50年以上も後の現在にまで影響を及ぼし、参照軸となっている。すでに早く、昭和22年の時点で、丸山は8月15日を「無血革命」だと唱え、戦後=再出発と肯定的にとらえた。

 だが丸山のあの日への評価が、一躍脚光をあびたのは15年後、1960年5月の安保闘争の時期だった。吉田茂によってアメリカとのあいだに締結された日米安全保障条約、この条約の更新をめぐって戦われたのが、60年安保闘争である。このとき内閣は、「昭和の妖怪」岸信介内閣に代わっている。岸内閣による安保更新の強行採決がおこなわれた5月の状況を、丸山は次のように考えた、「つまり、5・20以降の事態は、本来ならば20・8・15において盛り上がるべきものがいま起こっているように思われる」と。

 無血革命による「戦後民主主義」の誕生は、本来、8月15日から始まるべきであった。だがたとえ15年後であったにせよ、今、眼の前の政治行動には民主主義の萌芽があるではないか。安保反対を訴える国会周辺の人波を、丸山は「騒然とした空気のなかに終始見えない形でただよっている秩序意識と連帯感」があると感激的に書きつけた。課題ははっきりした、倒すべき対象は目の前にある。8月15日にもどれ、そしてどちらの側につくかを強く求め、「中間の考え方」を排除し、人びとは「つながる」べきではないか――丸山は、こう考えたわけである。

 だが丸山が叫んでやまない、こうした「連帯感」こそ、最も恐ろしい集団である、そう考える思想家がいた。

 文芸評論家の江藤淳である。江藤は思った、政治という「言葉」には二つの意味がある。第一に、自分の考え方を人びとに言葉巧みに拡大し、どこまでも支配領域を広げてゆくこと。このとき言葉は、デマゴキーやスローガンとなり、問題は単純化される。言葉は支配の道具に堕落する。

 丸山の安保肯定の発言は、この意味での政治に堕落する可能性がある。「中間の考え方」などない、と人びとを追い詰める問いただし方こそ、民主主義=意見の多様性を排除してはいないか。

 次に、政治にはもう一つの意味がある。

 壊れやすさを宿命とする秩序、人びとの生活を維持し続ける静かで、しかも目立たない行為の連続、これも政治である。人から称賛されないかもしれない、だが黙って問題に対処し、次の世代に共同体の存続を受け渡していくこと――この地味で、しかも緊張に富んだ営みを政治と呼ぼう、江藤はこう思った。第一の政治でなく、この第二の政治にこそ、政治本来の役割はある。

 こう思うようになってから、江藤は、岸政権の強硬策だけでなく、安保反対のデモにも懐疑的になった。「私はデモが嫌いなので、一度もデモに参加しなかった」――。安保闘争を、丸山はあまりにも美化しすぎている。どうして知識人はこうも、過剰なまでの「つながり」を、つまりはデモを肯定できるのか。それはおそらく、いつも自分自身が「正義」を握りしめていると思いたいからだ。だがそれは「独善」ではないか。

 そして唯一の現実=真実は、次のようなことではないのか。たとえば太宰治が『斜陽』という作品で描いたように、この国は敗戦で、あらゆる価値観の「崩壊」を経験し、傷つき、めまいを感じたのである。ただそれだけが、真実である。この現実の直視を避け、知識人は夢と理想に立てこもった。その方がよほど楽だからだ。「戦後知識人」は、敗戦経験の苛酷さに耐えられず、だから革命・民主主義・平和主義などの言葉に立てこもり、自らの不安を慰めるために過激に「つながろう」としている、江藤はこう思ったわけである。

「砂粒化」の時代


 彼等の緊張感溢れる精神のドキュメントを、私たちがすっかり忘れて生きてきたのには訳がある。1980年代以降、経済でいえばバブル、思想でいえばポストモダンが隆盛した。これが忘却の原因なのである。この時代の特徴を一言でいえば「つながり」の否定・忘却の時代である。

 階級であれ、地域共同体であれ、私たちは自らを位置づける場所を次々に壊していった。19世紀のマルクスは、どの階級に属しているかに注目し、人間を定義しようとしたが、同時代のトクヴィルは、人間がバラバラな存在となり、そのことに不安を抱く存在だと定義した。トクヴィルだけではない。ギデンズやベックなどの学者も指摘したこうした事態、人びとが個別化し、自分の世界と嗜好に閉じこもってしまう社会が、1980年代以降の「戦後日本」に、登場してきたのである。

 こうした時代状況を、宇野重規氏は「砂粒化」の時代だと言っている。自分の世界にだけ興味をいだくバラバラな私。このイメージを宇野氏は砂粒のようだと言っているのだ。

 ただ80年代、私たちは、バラバラな自分に特に不安を抱かないですんだ。未曾有の経済的な繁栄は、会社になど所属しないでも十分な金銭を獲得できたし、国家など考えずとも、防衛はアメリカに、思想的には何でもありの相対主義で暮らしていくことができたからである。ポストモダンとは、歴史と国家、そしてつながりからの逃走である。あらゆる価値観から逃げ出して、所属することを重荷であると否定して済まそうという思想運動であった。

 だが今や、時代は急速に代わりつつある。不況、震災、そして近隣諸国との軋轢を目にした私たちは、今や80年代以降のバブルと思想を捨て去り、再び、「つながり」を求めようとしているのだ。「現在では、脆弱な個人の〈私〉の自意識がますます鋭敏化する一方で、同じような意識をもった他者とのつながりは築けないままでいます」(『〈私〉時代のデモクラシー』)という危機を宇野氏は指摘する。「砂粒化」は、今やあきらかに危機なのだ。

 時代は転換しつつある。東日本大震災以降、人びとは「砂粒化」から逃げだし「つながろう」としている。反原発デモから、地域援助のNPOまで、さらにはデモクラシーの再定義から、ナショナリズムまで、今や、思想的左右なく時代全体が共同しようとしているのだ。この現状、思想的左右なく人びとが手を握りあおうとしている時、「ナショナリズム」はなぜ特権的に重要なのだろうか。