革命もデモも、ありえない


 「つながり」が求められている現在、私は「ナショナリズム」を重視するが、デモには懐疑的である。なぜか。それを知るための手がかりを、若者の著作に求めよう。

 「戦後」日本の構造を深くえぐりだした白井聡氏の著書『永続敗戦論』(太田出版、2013年)はきわめて誠実に言葉を連ねるが、デモや革命を主張するとき、こうした言葉に陰影は失われ、赤裸々な感情と暴力、憤慨が躍り出てしまう。

 氏は「戦後日本の核心」と副題し、戦後日本に内在的に肉薄しようとした。白井氏は、原発問題こそ戦後を考える重要な転換点だと考えている。その上で尖閣諸島をふくめた対外関係にまで広く言及し、戦後日本の根本構造である「平和と繁栄」の物語を破壊しようと企てるのだ。

 具体的にはこうだ、戦後とは、保守も革新も同じ過ちを犯してきた歴史のことである。保守は「親米」であることで、右翼的な立場をとることができた。一方、平和主義を唱え続ける左派陣営も、同じ過ちから抜け出せない。アメリカの地政学的な事情=政治的事情から、平和を口にできている日本のお粗末な状況を、理解できていない。確かに一見、イデオロギー上の左右の対立はあった。だがしかし、戦後の保守と革新は、同じ舞台のうえを踊っていただけではないのか――白井氏のいう「永続敗戦」とは、この対米従属の構造を言い換えたものだ。

 今日、このような白井氏の発言は、それなりの評価を受けるのだろう。事実、若手の論客にみられる「保守主義」は、総じて反米的であり、白井氏の論理にも近い。だが私は、白井氏の発言内容が、最近の保守に近いから引用しているのでも、賛成しているのでもないのだ。

 「言葉」の使い方、「言葉」の佇まいを考えているのである。

 たとえば、白井氏は、日本が核武装すべきと思っているわけではないとことわったうえで、平和主義と核武装について次のように言う。

 「唯一の被爆国である日本は……」というフレーズの後に「いかなるかたちでも絶対に核兵器に関わらない」といった類の言葉が自動的に続くことになってしまうという事態は、もうひとつの論理的可能性を排除することによって成り立っている。それは思想の衰弱にほかならない(158頁、傍点原著)

 白井氏はここで「思想の衰弱」を恐れている。それは言葉の役割を手放さないということだ。矛盾する現実を直視する勇気を手放さず、江藤のいう第一の政治=支配の力学に抗うことを目指している。すなわち氏は、日本では珍しく「言葉」にこだわり、考える忍耐をもっているように見えるのである。

 だがこの言葉への愛着が、文章後半で乱れ始める。

 文章の後半、豊下楢彦氏の著作『安保条約の成立』などを参考に、白井氏は戦後の「国体」について考える。戦後の国体とは、安保体制にほかならず、アメリカとの間の「永続敗戦」にあると。さらに、「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない。かくて、問題の焦点は、革命・革新に見定められなければならない」ことに白井氏は気がつく。つまり、戦前であれ戦後であれ、一切の革命的なものを否定すること、これが戦前戦後をつらぬくわが国の最大の問題=「国体」だというのである。

 こう結論づけた白井氏の文章は、戦後体制その象徴として原子力政策に触れつつ、次のように締めくくっている。私はそこに、現在の知識人=言葉にかかわる者が陥る、課題が典型的に現れていると思う。

 それはとどのつまり、伊藤博文らによる発明品(無論それは高度に精密な機械である)であるにすぎない。3・11以降のわれわれが、「各人が自らの命をかけても護るべきもの」を真に見出し、それを合理的な思考によって裏づけられた確信へと高めることをやり遂げるならば、あの怪物的機械は止まる。われわれの知的および倫理的な怠惰を燃料としているのだから。(184頁)

 もちろん、「怪物的機械の停止(破壊?)」という結果を得るためには、私たちは「革命」を起こさねばならない。それだけが唯一、近代日本の「国体」を破壊するからだ。

 この発言を、左翼だと言って批判しても、恐らくほとんど意味がない。問題は、氏がここで無意識のうちに「言葉」を放り出している事にある。批評をふくめた文学的な営みは、基本的に自分の内側にある倫理だけに忠実であればよい。ただ、現代批評のチャンピオン・小林秀雄が言ったように、批評とはついに、懐疑的に己を語ることでなければならない。

 つまり、言葉にかかわるものは、自分の根本に懐疑を、疑いの眼をつねに抱きしめていなくてはいけない。にもかかわらず、氏を支配しているのは懐疑ではなく、暴力的なまでの正義感である。

 自己への懐疑が、引用の文章にはどこにも見当たらない。なぜここで氏は「われわれ」と複数形で人に呼びかける必要があるのか。本物の「言葉」は、そう容易に人と人とを架橋できないこと、越え難い「ズレ」があることを感じた人間が発する、技巧的作品ではないか。だが自らの「怒り」の感情をおさえきれず、強引に「われわれ」に共有を求めていないか。それは言葉の抛棄である。

 また第二に、白井氏自身が抱きしめている「確信」は、いったい何を根拠に成り立っているのだろうか。倫理も正義も、「人間の意志に関わりなく、人間と人間の関係」から、つまりは「関係の絶対性」(吉本隆明)からしか、生まれない。だがここで、性急に「倫理的な怠惰」を戒める時、それが真面目であればある程、純粋主義へと近づいてしまう。

 確かに震災以降、国内は混乱し、戦後的価値は疑問にふされている。戦後体制の下で進められてきた原子力政策もその象徴なのであろう。

 また東アジア情勢に目を向ければ、新しい動きに充ちていて、これまた従来の国際秩序は破綻の兆しを見せている。この混乱した時代にあって、暴力的な苛立ちが生まれている。しかしそのとき、暴力=自らの正義の斧を振り下ろす対象を求めて何になる? しばしば言われる「権力の可視化」、すなわち「こいつを叩けば全てうまく行く」といった「言葉」に私は懐疑的である。権力が視えるようになったと絶叫した瞬間、人は現実を見る眼を実は失っている。複雑なモザイクの現実は、絶対に「見通す」ことができない。

 私にとって、確かだと思われる「つながり」は、だから一時的、瞬間的、情緒的でないものだけだ。怒りだけでは人は「つながり」つづけることは出来ない。つまり「くらし」を営むことができない。そのとき、今あるべき共同性とは、死者たちが積みあげてきた時間が与えてくれる「馴染み」ある「くらし」に他ならぬ。死生観と倫理観は、個人の独善とは無縁のものだ。こうした歴史への思いを含んだ「ナショナリズム」こそ、今、必要な「つながり」ではないのか――これが私の考える『ナショナリズムの復権』なのである。

せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部倫理学科卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史、日本倫理思想史。著書に『高山樗牛―美とナショナリズム』(論創社)『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)など。