今年は先の大戦が始まった真珠湾攻撃から、ちょうど80回目の年にあたる。昭和天皇独白録の中に「あの戦争の敗因は何であったか」という問いにお答えする場面がある。戦略的な視点を持った人材の不足や、下克上の風潮といったことの他に、昭和天皇は科学技術の軽視を挙げておられた。

 戦前戦中の精神主義への偏重とあわせて、当時の日本にはそんな空気が支配していたのかもしれない。

 先の大戦の開戦前には、若手官僚とえりすぐりの民間企業エリートを集めて総力戦研究所なるものが立ち上げられ、日米の戦争推移がシミュレーションされた。結果は、どうやっても負けるというものだった。

 不足する石油を求めて南方に出て行っても、輸送船をことごとく沈められ、最後はソ連が参戦して終わるというところまでリアルに描き出している。それでも、戦争は止められなかった。

 日本海軍の永野修身軍令部総長は、欧米との開戦前にその苦悩の胸中を述べている。「戦うも亡国かもしれぬ。だが、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である。たとえ一旦の亡国となるとも最後の一兵までも戦い抜けば、我らの子孫はこの精神を受け継いで、再起三起するであろう」と。

 ただ、フランクリン・ルーズベルト大統領による、日本人には狂気に感じるような対日強硬策を考えれば「開戦」こそが国民を支配する空気だったのかもしれない。

 けれども永野軍令部総長を含めて多くの戦争指導者たちが、空襲による国土の焦土化と民間人を巻き込んだ凄惨な沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの原爆やシベリア抑留の惨状をイメージした後で開戦の決断をしただろうか。

 さらに言えば、その発端である日中戦争さえ、その時点で多大な戦費と犠牲者を出していた。戦争そのものをやめるないし終わらせる政策を、戦争指導者たちはなぜ実行できなかったのか。

 「いつの間にか始まっていた」という多くの関係者の言葉が、当時の空気の支配の怖さを物語っている。しかしそれは、今の新型コロナとの戦いにも言えることかもしれない。
かつて捜索活動に携わった陸前高田市を訪れ奇跡の一本松に向かい黙祷する自衛隊員=2012年3月9日、岩手県陸前高田市(頼光和弘撮影)
かつて捜索活動に携わった陸前高田市を訪れ奇跡の一本松に向かい黙祷する自衛隊員=2012年3月9日、岩手県陸前高田市(頼光和弘撮影)
 この1年ほど、PCR検査という言葉が広く知られるようになったときはないだろう。もちろん、PCR検査はこのコロナ禍に合わせて開発されたものではない。かつて陸上自衛隊でも生物兵器の脅威を受けて、バイオ検知器の導入が検討されたことがあった。

 しかしその際、PCRは採用しなかった。増幅を何十回も繰り返せば、昨今話題となっている偽陽性や偽陰性といった誤報は避けがたいという判断である。コスト面でも、とても折り合うものではなかった。

 それが現在では世の中で時代の最先端機器となっている。もっとも最近では、日本政府が新型コロナウイルスを検出するためのCt値(ウイルス遺伝子数)をこっそりと下げて、海外基準に適正化したという話もある。この第3波がほぼ終息に向かい出したのは、日本の厳しいCt値を適正化したからだという見方も存在する。
 
 そもそもCt値が高ければ、たとえ微量のウイルスでも検知されてしまい、いわゆる「無症状者」が増えてしまうのだ。