橋場日月(歴史研究家、歴史作家)


 天正9(1581)年1月15日の大々的な安土馬揃(うまぞろえ)を催した織田信長。参加者は700人、見物の群衆は20万人にも及んだが(フロイス「日本史」)、混乱もなくスムーズに進行し大盛況の内に幕を閉じる。実はこの成功の立役者は、明智光秀だった。1月23日付けの朱印状(写)で彼はこう光秀に言葉をかけている。


先度は、爆竹諸道具拵(こしらえ)、ことにきらびやかに相調へ(ととのえ)、思い寄らずの音信、細々の心がけ神妙(しんびょう)候。

 この文言の通り、光秀が山車(だし)や爆竹の仕掛けを整えて安土に送り届けたのだ。そしてそれがまた素晴らしく豪華絢爛な出来で、信長はそれを予想外のプレゼントだったと喜び、細かい気配りが秀逸だと絶賛した。

 かくして信長の期待をはるかに上回る準備をやってのけた光秀だが、彼は1月6日に坂本城で連歌会を行い、13日には訪問してきた公家の吉田兼見に対し、「近日所労之間(最近病気だから)」と対面を断っている。

 前年、大和国に駐在して指揮した検地や城破(しろわり、城の破却)の激務の疲れが出て体調不良だったにもかかわらず、信長の大イベントの準備にも余念がなかったのは、さすが当時「天下の面目を施した」と信長が最も高評価を与えるお気に入り家臣だった光秀だけのことはある。

 さて、光秀が自分の体を顧みず心血を注いで支度した用意が信長のお気に召したのは、彼が信長の安土馬揃に籠める「自己神格化」の狙いを完璧に理解し忠実に実現しようとしていたことに他ならない。光秀について宣教師のフロイスはこう評している。


 彼(信長)を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け(た)

 光秀には「御ツマキ」という名の妹がいた。信長の奥向きの女官として非常に信頼が厚く、表向き担当の猪子兵介とともに、信長在京中はさまざまな陳情客の取り次ぎなどに活躍していた有能な女性だったらしい。

 光秀は彼女を通じて信長の公私両面での一言一句、一挙手一投足のすべてを知り、その考えや好みを完璧に把握してその意に沿うべく行動していた。

 かつて元亀2(1571)年12月に比叡山延暦寺の焼き討ちが行われた2年後、信長が将軍の足利義昭と対立して上京を焼き払おうとした際に「比叡山の破滅は王城の災いになるのか」と吉田兼見へ諮問し、自分の延暦寺焼き討ちが伝承を裏付けることになるかどうかを気にする素振りを見せたことは以前の回で述べたが、光秀はそんな信長を上回る積極性で延暦寺方の勢力を「ぜひとも撫で斬りに」しなければならない、と主張していた。ある意味、信長以上に信長イズムを主導する男だったと言えるだろう。

 そんな光秀が手配したのだから、安土馬揃における左義長の道具や仕掛けに抜かりがあるはずがないのである。

 信長の全面的信頼の下で神格化に貢献する光秀。惟任の名字を与えられ、将来的には九州の経略にも携わるだろう彼は、四国の長宗我部元親に対する申次(もうしつぎ、外交交渉の窓口役)を務めていた。
大阪府岸和田市の本徳寺に明智光秀像として伝わる肖像画 (模本、東大史料編纂所蔵)
大阪府岸和田市の本徳寺に明智光秀像として伝わる肖像画 (模本、東大史料編纂所蔵)
 当然ながら、元親が信長に完全に臣従すれば、織田軍は長宗我部勢を先鋒として九州を攻略する形となり、逆に元親が離反すれば、光秀が四国入りして長宗我部家を攻め滅ぼし、余勢を駆って九州まで攻め込むという流れになることが予想された。