光秀はこの予定調和を確かなものにするため、前年の天正8(1580)年5月に中国地方の毛利家に対して「宇喜多家は信用できないから、毛利家との講和を推進したい」と申し入れている。むろん、これは信長の意向としてなのだが、光秀のロビー活動の結果であり、御ツマキも重要な役割を果たしただろうことは想像に難くない。毛利との戦争を中止させれば、彼のライバルである羽柴秀吉の中国制圧プロジェクトは立ち消えとなり、光秀の四国路線がいよいよ確かなものとなるのだ。

 だが、この目論見はその直後に崩壊のきざしを見せていた。秀吉は11月に「来年には信長様が中国地方にご出馬される」と黒田官兵衛に伝えたのを皮切りに、しきりに信長の親征を言い立て、信長の安土馬揃直後には「(出馬の際に必要となる)『御座所』(進軍ルート上で信長が滞在宿泊するための城砦。資材・兵糧もストックする)の築造作業に全力を注いでいることもアピールした。

 これは信長の意向というよりも、お膳立てを整えることによって信長を引きずり出し、毛利征伐を何が何でも既成事実化しようと考えたのだろう。このあたり、光秀も秀吉も敵というより味方の動きを監視しながらライバルに一歩先んじようとしている。

 そして、光秀が信長から差配を命じられた京での大馬揃が2月28日盛大に挙行され大成功裡に終わる中、秀吉は中国戦線から信長側近の長谷川秀一にこう書き送っている。

今度の御馬揃が見られなかったのは残念でしかたない。皆々の仕立て(準備の案配、様子)など詳細に教えていただきたい。

 一見、秀吉は馬揃に参加したメンバーの装いを知りたがっているようにも見えるが、実はそうではない。それぞれがどんな人間とどういう関係にあるか、特に光秀がどう動いているかをチェックしたかったのだ。信長の中国地方親征実現という大逆転の大詰めだけに、どれほど慎重に情報を集めても足りない。

 そして、秀吉の努力の甲斐はあった。5月、光秀は伯耆国(現在の鳥取県の中・西部)の織田方領主に対し、「毛利・小早川と対陣している秀吉の加勢として伯耆に出陣する」と報せ、協力を求めたのだ。

今回について信長様はまず秀吉の担当方面に全力を注ぐとお決めになられた(此度之義は、先至彼面相勤之旨上意に候)。

 言外に自分の本意ではないという無念さをにじませる文言に、この時点で彼の親である毛利路線が反毛利路線の秀吉に完敗したことが明白に現れているではないか。翌月、秀吉は因幡鳥取城攻めを開始している。
大宮神社で見つかった等身大の豊臣秀吉坐像=2020年5月20日、大阪市旭区
大宮神社で見つかった等身大の豊臣秀吉坐像=2020年5月20日、大阪市旭区
 悪いことは重なるもの。8月には光秀が頼りとする妹の御ツマキもこの世を去る。信長に影響力を持つ彼女の死に、光秀は「比類無く力落とし」たという(「多聞院日記」)。これで彼に起死回生の目はまったくなくなった。本能寺の変まで、あと1年を切っている。

 話を信長中心に戻そう。御ツマキの死の前、7月15日。旧暦ではお盆にあたるこの日、信長はまたも斬新なイベントを挙行した。「無数の提灯の群れは、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた」(同書)。そう、有名な安土城ライトアップである。

 現在でもお盆に門前で火を焚いて死者の霊を迎え、盆灯籠や盆提灯で故人の冥福を祈る風習はあるが、信長の当時も当然それは同じだ。この日、信長は安土城7層天主の各階の縁側にカラフルな無数の盆提灯を吊させ、夏の夜空に煌々と浮かび上がらせた。