長い話もようやく信長の最後の年に行き着いた。天正10(1582)年の元日、安土城の信長は大量の家臣団の新年の霊を受け、天主東南下の御殿(清涼殿を模したもの)の御幸の間(天皇が行幸の際に用いる居室)を見物させ、裏口の白洲を経て北の台所に付随する厩の入り口へと誘導した。

 そこには信長自身が立って待ち、皆から一人あたり100文の見物料を直に受け取って後ろ手で屋内に放り投げている。それはまさに、神社の拝殿で賽銭を集める神そのものといった風情だったろう。

 そして15日には前年から引き続き御爆竹(さぎっちょう、左義長)を開催。25日、伊勢大神宮の正遷宮(内宮が100年以上、外宮が20年以上途絶していた)を実行するため3千貫(現在の価値で2億円程度)の寄進を決定。神宮側は信長に1千貫の協力を頼んで残りは他への募金で賄うつもりだったのだが、信長は「足りなければまたいくらでも出す」とオンリー・ワンの出資者となることを選ぶ。天皇家のルーツ、日本の神社の頂点にある神宮までをも、信長は独占する挙に出たのだ。

 3月11日、信長の嫡男である信忠を大将とした討伐軍により、甲斐の武田勝頼が滅亡。信忠は勝頼がかつて名跡を継いでいた諏訪家の当主が大祝(おおほうり)を務める諏訪社(現在の諏訪大社)の上社を焼き討ちしたが、第26回で述べたように信濃善光寺へのルート上にある諏訪社から完全に武田家の余韻を焼き浄めるためでもあったろう。

 そして信忠は、甲斐に進んで甲斐善光寺からその本尊を没収した。これもすでに紹介した通りで、「かの地で大いに尊崇されていた一つの偶像を持ち帰った」というフロイスの証言もある。阿弥陀如来像はいったん尾張清洲に送られ、それからさらに岐阜へと移された。安土─岐阜─諏訪社─信濃善光寺のパワーラインはこうして完成した。

 だが、その直後、自分の政治的発言力の消滅に絶望していた重臣の明智光秀は、秀吉の応援のために中国方面へ出陣するよう命じられると、信長が京に出て本能寺で茶会を開くことを知った。7年前にも九十九髪茄子を京の茶会に持ち出した信長だが、今回も同様、九十九髪茄子を携えて5月29日に上洛し本能寺に入っている。亀山城の光秀はおそらくその情報にも接しただろう。

 「如意宝珠が、蓬莱山から離れたか!」。光秀にとってそれは天啓だった。彼は27日に愛宕山に参籠し、有名な「時は今。天が下なる 五月哉」の発句を詠んでいるが(「愛宕百韻」)、このときはまだその叛意は確定しておらず、懊悩(おうのう)の中にあったのではないか。

 しかし、信長の力の源(と、信長自身もその周囲も信じていた)である龍のパワーが分散するという絶好の機会に接して、光秀の心は定まった。6月2日未明、彼の軍勢は京・本能寺になだれこみ、信長を炎の中に葬ったのである。

 なお、このとき光秀が本陣を本能寺付近ではなく鳥羽に置いたという説が『乙夜之書物(いつやのかきもの)』を史料として富山市郷土博物館主査学芸員、萩原大輔氏によって唱えられ、話題となっている。

 「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」というものだが、変から100年近く経って成立した史料の記述が真実だとすれば、本能寺をはるかに通過して鳥羽に陣を布いたのには何らかの特別な目的がなければ単なるムダな動きでしかない。
京都市中京区にある現在の本能寺
京都市中京区にある現在の本能寺
 おそらく光秀は近江坂本城・丹波亀山城という2つの本拠と鳥羽で逆三角形の結界を作り、その中に信長を取り籠めて龍のパワーを封じようと考えたのだろう。

 彼の狙い通り、信長は何ら神通力を発揮することもなく九十九髪茄子ともども灰塵に帰した。そして6月15日、安土城天主もまた、炎上する。いまだにその原因も確定していないが、焼けたのが天主と本丸だけである以上、軍勢による焼き討ち放火の類いではないだろう。

 石を割るほどの高熱を発した形跡が残っているので、天主は猛烈な炎の柱と化したことが想像できる。それはあたかも、龍が天に昇る姿を思わせるものだったに違いない。