「帝國海兵としてお役に立つ」


 先の記事にも触れられているが、1943年に台湾で海軍の特別志願兵制度が発表された際、入隊希望者が殺到した。私の兄は晴れて第1回目の志願兵となる。次に紹介するのは、『台湾日日新聞』(昭和18年9月22日付)に掲載された兄(日本名:岩里武則)のインタビュー記事である。

 岩里武則君(22)臺北市下奎府町4丁目=武則君は大正10年臺北州三芝庄新少基隆に出生、淡水で高等小学校卒業後家業を手伝つてゐたが昭和17年8月台北州巡査を拝命、北署管内太平町3丁目の派出所に勤務する明朗溌剌な青年巡査であるが、海兵第一番乗りの喜びを下奎府町の自宅に訪へば武則君は妻女奈津惠さん(22)、愛兒美智子ちやん(4つ)、憲昌ちやん(2つ)の前で感激の面持で次の如く語つた。

 私が海軍特別志願兵を受験した時から必ず合格すると信じてをりました。しかしそれが本當に實現してこんなに嬉しいことはありません。勿論銃後にあつて治安保護の戦士としてお國に盡すこともご奉公ですが、出來る事なら第一線でお國のために華華しく活躍したいと思つてをりましたがそれが本當になりました。しかも無敵帝國海軍の一員として名譽ある軍艦旗の下で米英撃滅に働くことが出來るのです。自分としてこんな感激に浸つた日は今日までありません。これからは立派な帝國海兵としてお役に立つ日の一日も早く來ることを願ふばかりです。

李登輝元総統(右)と兄・李登欽氏。1943年撮影(写真提供:日本李登輝友の会)
 1944年、高雄から程近い左営の海軍基地に初年兵として配属された兄は、日曜の休みに私を訪ねてきてくれた。そして2人で一緒に記念写真を撮ったのが、生前に会った最後となった。

 そのとき、兄が私に言い残した言葉は「南方のある港に駐在になる。おまえも近く日本に行くだろう。会うのは今日が最後だな」ということだけだった。南方というのはフィリピン・マニラのことである。しかし軍機に触れるという理由で、兄は私に具体的な行き先を告げなかった。

 当時、兄は最優秀の巡査として、台湾でいちばん大きな派出所に勤めていた。そんな立場をなげうっての出征である。しかも、若い妻と幼い子供を残して行くのである。いったい、どんな気持ちだったのか。兄の戦死から70年経ったいまでも、私の心の整理はついていない。だが、「立派な帝國海兵としてお役に立つ」と語った兄の気持ちに偽りはなかったと思う。兄も私もほんとうに若かった。国のために立派に戦って死ぬという理想に燃えていた。いま言えるのは、それだけである。

東京大空襲で奮闘


 高雄で兄と別れたあと、私は輸送船に乗って台湾・基隆を出発した。潜水艦の雷撃を避けるため、輸送船は中国大陸、そして朝鮮半島沖の浅瀬を進みながら、日本をめざした。門司港(福岡県)に着いたのは、基隆を発ってからじつに21日後のことだった。

 1945年2月、私は千葉県稲毛にあった陸軍高射学校に入り、いわゆる予備士官教育を受けた。早速、3月10日には大きな戦いが待っていた。東京大空襲である。帝都に侵入するB-29の大編隊に対して、われわれの部隊は高射砲を撃ちまくった。台湾の防空戦で実戦慣れしていた台湾出身者は、日本人幹部候補生が慌てるなか、大いに奮闘した。焼夷弾の破片が私の鼻をかすめたが、軽傷で済んだのは幸いであった。この戦闘では高射学校直属の小隊長が戦死。私はたちまち飛び出して、代わりに指揮を執った。

 翌日、軍命で東京東部に出動し、被爆地の整理、被災者の救済に当たった。現場をみて指揮する大切さを知り、このときの経験が1999年の台湾大地震で役に立った。

 その後、私は名古屋の部隊に配属になったが、この地域も米軍による空襲が激しかった。米軍が最後に名古屋を爆撃に来た日の戦闘では、付近の工場を片っ端から爆撃していったが、いま思い出してもほんとうに悲惨な光景だった。すでに米軍の爆撃で名古屋城一帯は焦土と化しており、われわれはお城の裏にテントを張って野営をしていた。

 8月15日の玉音放送はたしかに聞いたが、音が小さすぎて内容がよくわからなかった。あとで日本が降伏、戦争が終わったと聞き、正直、ほっとしたのを覚えている。これから日本がどうなるのか、そのときはまったく見当もつかなかった。2、3日後、京都に帰りたいと申し出てみたら、あっさり許可が下りた。京都帝国大学に戻ってみたら、数日後に通知が出て、退職金を取りに来いという。日本で1年は暮らせるぐらいの額の金はあったと思う。しかし、すでに故郷の祖父からは「早く帰れ」と矢のような催促が来ていた。私も故郷のことが心配でたまらなかった,。

 京都周辺では台湾人による帰国準備があまり進んでいなかったが、同じころ東京では、台湾の友人たちが集まって浦賀から帰国する計画を進めていた。そこで私は東京に向かい、新橋駅近くにあった台湾出身の陳さんの家に住ませてもらい、出発の船を待つことにした。辺り一面焼け野原のなか、陳さんの家だけがポツンと建っている状態だった。

 1946年4月、故郷の三芝庄に無事帰ることができた私は、祖父母や両親と再会したが、兄の行方についてはまったくわからずにいた。しかも、使用人として雇っていた親戚の女の子が不思議なことをいう。軍刀を持った血まみれの兄が蚊帳の外に立ち、兄嫁が大事に育てた子供たちを見ていたというのだ。その使用人の女の子は実家に帰ってしまったが、程なくして亡くなったと聞いた。

 私は、兄が家に来たのは戦死した日ではないかと思った。どうしても兄にもう一度会いたかった私は、毎晩、寝ずに兄の霊が現れるのを待っていた。72kgあった体重はみるみるうちに60kgまで痩せてしまった。しかし、いくら待っても兄の霊は現れない。心労からか、半年も経たないうちに母は癌で亡くなり、祖父までもが肝臓を悪くして死んでしまった。父は95歳の天寿を全うしたが、遺骨が還らないことから、兄が死んだことを最期まで信じなかった。父が兄の墓を建てなかったため、私の家族は兄の霊を弔うこともできなかった。

1943年に撮影された家族の集合写真。後列右から李登輝元総統、兄・李登欽氏。前列右から父・李金龍氏、祖父・李財生氏、母・江錦氏、兄嫁・奈津恵氏とその子供たち(写真提供:日本李登輝友の会)

大好きな兄との再会


 靖国神社で兄に再会したのは、兄が戦死してから62年経った、2007年6月7日のことだった。兄は海軍陸戦隊員としてマニラでしんがりを務め、散華していたのである。

 靖国神社で兄の霊の前に深々と頭を垂れ、冥福を祈ることができたことは、私に大いなる安堵の気持ちをもたらした。仲のよかった兄の霊とようやく対面し、私は人間としてなすべきことができたと感じた。内外の記者が私を取り囲んでいろいろなことをいってきたが、「私の家には兄の位牌もなければ、墓もない。自分のいちばん大好きな兄貴が戦争で亡くなって、靖国神社に祀られている。もうこれだけで、非常に感謝しております。もし、自分の肉親が祀られているとしたら、あなたはどうしますか」というと、みな黙ってしまった。彼らも私の心情を理解してくれたのだと思う。

 靖国神社への参拝はあくまで家族として、人間としてのものであり、政治問題や歴史問題の次元で捉えてほしくなかった。そもそも、靖国神社に祀られているのは、国のために命を落とした者ばかりではないか。その一人ひとりに家族がおり、また生きていれば、国のために立派な仕事をしたかもしれない。その霊をいま生きている家族や国を預かる指導者が慰めないで、誰が慰めるのか。政治的に騒ぎ立てること自体が人の道に外れている。