なぜ、大和と武蔵を造ったのか?


 日本が大和型戦艦の一番艦である大和の建造を始めたのは、昭和12年(1937)のことでした。日本海軍が巨大戦艦を求めた理由を知るには、大正11年(1922)締結のワシントン海軍軍縮条約に目を向ける必要があります。

 日露戦争、第一次世界大戦を経て世界の大国の仲間入りを果たした日本でしたが、これを押さえつけようとするアメリカら主導の軍縮条約によって、今後10年間の戦艦新造が禁止されました。日本は、建艦能力の全てを注ぎ込むはずの「八八艦隊計画」の中止を余儀なくされます。

 その後、さらに補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約を経て、このままでは仮想敵国のアメリカに抗する術のない日本は、軍備平等を主張するも受け入れられず、会議を脱退。しかしアメリカとの国力差は隔絶しており、日本は国家予算の全額を投入しても建艦競争には勝てないのが現実でした。

 「持たざる国」日本が「持てる国」アメリカに抗しうる戦力を持つには、どうすべきか――。そう考えた海軍が計画し、建造したのが、46センチ主砲を搭載する大和型戦艦でした。

 アメリカがどれほど多くの戦艦を揃えていても、現実的には一度の艦隊決戦に全てを投入することはありえず、大和型戦艦を擁すれば個別の決戦で敵艦隊の戦力を凌駕できます。その戦略は、当時の日本の経済力を鑑みれば実に理に適った選択でした。

 超大国による圧迫を前に、「国を守る戦備をどう実現するか」を模索する日本海軍が辿りついた乾坤一擲の一手、それこそが戦艦大和と武蔵であったのです。