日本国憲法の正体は占領政策基本法


義家 ポツダム宣言では紛れもなく条件降伏となっていた。しかし、現実に米国が実施したのはそれとは正反対だったわけです。天皇及び日本国政府の国家統治の権限はマッカーサー司令官に属し、彼がすべてを決める。われわれと日本国の関係は契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏が基礎となる。つまり、ポツダム宣言が破棄されたわけですね。
マッカーサーは「大東亜戦争は日本の自衛戦争であった」と議会証言した=1945年9月撮影
 この通達には、日本の管理はまず日本政府を通じて行うと書かれています。つまり、この時点でも日本国は存在するのです。しかし、一方で必要なら直接連合国軍が行動する権利を妨げるものではないとも述べ、日本が言うことを聞かないならGHQは直接統治するとも言っている。これはポツダム宣言の上書きではなく、卓袱台返しに等しい。

渡部 ですから、そこはトルーマン大統領が国際条約であるポツダム宣言を勝手に廃止した。明らかにトルーマン大統領の国際法違反なのです。間接統治に留めたのは重光さんたちの努力ですが、その結果、出てきたのが占領政策基本法でそれが今の憲法というわけです。

 あの憲法の前文を読んでごらんなさい。そういう憲法だとよくわかります。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。連合国だろうが何だろうが外国に国民の生命まで預ける。そんな憲法が本来あろうはずないのです。護憲派は9条ばかり口にしますが、この前文のおかしさは言いたがらない。こんな前文は誰が見ても弁解できませんからね。

私の人生を変えた占領政策と錯誤に気づいた米国


渡部 それから、占領軍は25年から50年近く日本を統治するつもりでした。私は当時、高校生で大学を理科系に進むか、文科系に進むかという選択を迫られていた。私は理科コースで学んでいた。ところが尊敬していた物理の先生が授業中に「君たちは今理科コースに来ているが、つまらないぞ」と突然言い出したのです。「物理学の一番先端を走るのは何と言っても原子核だ。ところが理化学研究所の加速器サイクロトロンは東京湾に沈められた。新聞にも出ているだろう。物理学は芯が止められたのだ」というわけです。「エンジニアリングの分野もそうだ。なんといっても飛行機なのに、日本は飛行機も作れなくなって工学もダメになってしまった。これからの日本はせいぜい自転車を作って東南アジアに輸出するより仕方がなくなったのだ」というわけです。皆愕然としました。それで、私は理科系への大学進学を諦め、文科系に移ったんです。尊敬していた英語の先生の影響を受けたこともありましたが、多くの学生が当時は私と同じように文科に移ったんですよ。

 長く続くはずの占領がパタッとなくなった理由は、朝鮮戦争でした。大学二年のときでした。するとあっと言う間に日本はいい国になってしまった。東京裁判が終わった直後の1950年だったと思います。それまで日本は悪い国とばかり言っていた。ところが、日本の言い分が決して間違いではなかったと米国にもわかったわけですよ。

 シナ大陸に1949年、中華人民共和国が出来たことも米国には衝撃だったはずです。シナ大陸を侵略した本尊は日本だった、その日本がいなくなれば、アジアに泰平が訪れる。そう米国は信じて、占領政策で日本を悪者扱いし続けた。ところが日本がシナ大陸から手を引いたら、いきなり共産党が伸びて共産圏になってしまった。そして大陸及び満州を支配し、朝鮮にまで入ってきたわけです。日本が元凶だとする米国が抱いていた幻想がわずか二年足らずで崩れたわけですよ。

 マッカーサー司令官は共産圏との戦争を憚らなかった。しかし、ここでトルーマン大統領と意見が合わずに米国に呼び戻されました。彼はその時、上院の軍事外交合同委員会で証言しているのですが、彼はそこで日本の戦争について「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.」というわけです。つまり「大戦は日本の自衛戦だった」と公式に証言したのです。簡単にいえば、東京裁判とはマッカーサーそのものです。連合国はマッカーサー氏にすべてを任せて東京裁判をやらせた。だから、彼は国際法によらずに自分が作ったチャーターによって裁いた。そのことがわかっていれば、マッカーサー証言は、東京裁判がぶっ壊れたことを意味する発言です。しかもこれはつぶやきでもなければ、伝記の言葉でもない。米国の上院軍事外交合同委員会という場での公式発言なのです。彼は日本への自らの評価を180度変えざるを得なかったのです。

 日本はいい子になってしまった。それでサンフランシスコ条約ができたわけです。

義家 戦後レジームにつながるサンフランシスコ講和条約までの三つのフェーズを少し整理します。まず、米国の占領初期のトルーマン大統領をはじめとした非常に極端なマッカーサー氏の方針が幅をきかせた時期があります。日本の軍事力を支えた経済的基礎を破壊し、再建を許さない。厳しい統治が続きました。日本の生活水準は日本が侵略した国よりも高くならないようにしておくという徹底的な強権統治だったわけです。

 ところが、これが変化したのが1948年、つまり昭和23年だったと思いますが、同年の1月6日、ロイヤル陸軍長官が演説で「占領経費が高くつきすぎる。日本にある程度の経済的自立を与えたほうがいい」と言い出したのです。彼は、将来極東で起こるかもしれない全体主義との戦争、すなわち共産主義との戦争を見据えていました。日本が抑止力を発揮できるようにする。占領政策の目的は日本が自給自足の民主主義国家を作ることだと言っているのです。日本を共産圏からの防波堤にすべきだと方針を変えたのです。冷戦構造、ソビエト連邦を意識してのことでしたが、突然に変わったわけです。

 そして三番目のフェーズが、今、渡部先生が指摘された朝鮮戦争でしょうね。1950年6月25日に勃発したこの朝鮮戦争についてトルーマン大統領は自身の回顧録で「日本にかなりの自治を復活させなきゃいけない」とつぶやいています。そして「日本の講和条約締結を促進しなければならない」とも「日本の国際機関への加入を促進しなければならない」とも言及し、初期占領から五年で方針転換された。これが51年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約につながっていくわけですね。

吉田茂首相の不徹底は避けて通れない


義家 戦後レジームからの脱却といった場合に政治の責任は大きいといわざるを得ません。外務省が無条件降伏ではないと断言し、ポツダム宣言は誰が見ても条件付き降伏です。しかし、ここでは吉田茂内閣の検証が避けて通れなくなる。昭和24年の予算委員会で吉田首相は「米国政府の声明としてポツダム宣言によって日本が権利として要求し、もしくは議論することは米国政府においては受け入れないと言われております」と答弁しているのです。12月26日には「日本は無条件降伏をしたのである」と明言し、25年2月6日には「ポツダム宣言に違反した事項がある場合、政府としては権利として交渉することはできません」とまで述べてしまっているわけです。

渡部 吉田首相が、あの頃の日本人にはガッツがあるとみえた。これは確かなのですが、立ち止まって考えると、彼はやるべき重要なことを相当やり残しているんですよね。例えば、真珠湾攻撃が日本のだまし討ちだったという日本の悪い評判を彼は払拭しようとしなかった。これは一にかかって外務省の出先機関の責任です。現地時間午後1時に国交断絶書を渡すことになり、そして、米国のハル国務長官の予約を1時に取ったわけですよ。ところが、翻訳が間に合わない、タイプが間に合わない、などといったつまらない理由で2時に延ばしてしまう。真珠湾攻撃は現地時間1時と2時の間ですから、「外交交渉中に攻撃した」ことになってしまった。これは最悪の事態ですよ。ルーズベルト大統領にはこの点を徹底的に利用されてしまって世界中に「日本はずるい国だ」という汚名が着せられてしまった。

 実態は逆です。日本ほどずるいことをしなかった国はなかった。当事者の責任は重大ですよ。ところが外務省の当事者たちは日本に帰ったのち、吉田首相によって全部出世させられて勲一等にしたり、外務次官になった人まで出てきた。吉田首相の頭の中では、もしかすると、日本の名誉より外務省の名誉の方が大切だったのかもしれません。

 当時の社会党の連中などと比べれば吉田首相が立派でした。これは大前提です。しかし、戦後の保守派と言われた学者や政治家たちが無闇に誉めたことで、彼の良くなかった点が見えなくなった気がしてなりません。

義家 吉田首相の不徹底は今に至るまでひきずっているんですよ。例えば領土問題などで教科書会社は日本政府の立場について明確に児童生徒にも分かる記述をする方針が示されています。ところが、この問題では、外務省が「無条件降伏ではなかった」といい、内閣の長である吉田首相が国権の最高機関で無条件降伏を明言してしまっている。その後も政府の見解は幾度も質されました。しかし、悉く政府から帰ってくる答弁は、吉田首相の答弁の延長上にあると言わざるを得ない煮え切らない内容でした。

 例えば、平成19年の政府答弁書は「一般に降伏とは戦闘行為をやめ、敵の権力下に入ることを意味し、その際に条件をつけない場合には無条件降伏と称されていることがあると承知しているが、文脈等にもよるものであり、お尋ねの定義について一概にお答えすることは困難である」。「無条件降伏の定義については一概に述べることが困難であるということもあり、お尋ねについては様々な見解があると承知している」といった具合です。民主党政権下の野田佳彦政権下の答弁も「無条件降伏については確立する定義があるとは承知していない」。

 要するに有耶無耶。有耶無耶さこそ戦後レジームと言わざるを得ない。「戦後レジームからの脱却」を具体的に進めるならば、新たな事実に基づく議論を立法府でしなければならない。何が戦後日本のスタートだったのか。ここが曖昧なまま、歴史だけが積み重なる危機感を私は強く感じます。

渡部 吉田首相についてもうひとついえば、サンフランシスコ講和会議が終了後にやるべきことでやり残したことがたくさんある。当時の野党第一党の社会党は講和条約に参加しなかったり、吉田氏に同情すべき点はあります。しかし、主権を回復した以上、せめて「日本国憲法は占領政策基本法でした」と一言言って欲しかった。

義家 おっしゃる通り、占領下のときにできたルールはすべて主権回復したら無効になりますからね。彼は終戦時は外相で、46年5月から47年5月まで首相だったわけで、第一次吉田内閣の時は、確かに誰が首相になっても非常に難しい時期だったと思う。実質的な権限を米国が持っていましたからね。ただ問題点は、再登板した1948年以降にあったと言わざるを得ない。こう思っています。

 学校の教科書ではサンフランシスコ講和条約によって主権を回復し、同時に日米安全保障条約をつくったと書いてありますよね。実はここもそう単純な話ではない。ポツダム宣言で条件付き降伏をしつつ現実にはトルーマン大統領が全くそれを反故にする話とよく似ているのです。サンフランシスコ講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで48カ国の代表を集めて盛大に日本の主権回復が調印された。ところが、一方で日米安全保障条約は米国陸軍第六軍の基地の下士官クラブで調印式をやっている。下士官といえば一番低いところですよ。出席者は米側から4人、日本からは吉田首相一人。つまり、あなたたちは独立してセレモニーを世界的にやってあげたが、一方で未だ保護国ですよという屈辱的な見せしめをやったわけです。