ポツダム宣言案の真の作成者


 ユージンの父アイザックは、アメリカ国籍を取得した亡命イラン人のキリスト教宣教師だった。ユージンは大阪に生まれ、幼年時代を奈良で過ごし、フランス語教育で有名な東京の暁星学園で財閥の子弟とともに教育を受けた。このためか、彼は幼いときから、キリスト教の神とは違った「現人神」としての天皇に神秘を感じ、魅了されていた。グルー(金融界の大物J・P・モーガンの従兄)は、自らが属する階級の利益のために皇室の存続を望んだが、ドゥーマンは天皇に対する崇拝の念から、この世界的にも稀有な存在の存続を願った。したがって、この草案の第12条が次のようになっていたのは不思議ではなかった。

「連合国の占領軍は、これらの目的(侵略的軍国主義の根絶)が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」

 いうまでもなく、この草稿の眼目は、最後の皇室の存続についての部分にあった。このほかにもこの草案には、前にも見たように、軍国主義者と日本および皇室とを峻別し、前者にのみ責めを負わせる配慮が見られる。日本生まれで日本育ちの「碧い眼の天皇崇拝者」としての彼の思いがそうさせたのだ。

ジョゼフ・グルー(Wikimedia Commons)
 グルーは、ドゥーマンが作成した最後通告を5月31日に大統領声明として出すことを5月29日の3人委員会に諮ったが、スティムソンが「先送りするのが穏当だ」と主張し、これが結論になってしまった。スティムソンの部下だったジョン・マクロイは、スティムソンがこのように主張したわけを「S1(原爆のこと)の使用準備のことも考えなければならなかったからだ」とのちに証言している。

 つまり、グルーにとっては最後通告を出す目的は、原爆投下とソ連の参戦を防止することなのだが、スティムソンにとっては多大の人的被害が出ると予想される本土上陸作戦を確実に回避することだったのだ。

 したがって、スティムソンの頭のなかにある選択肢は(1)皇室維持条項の入った最後通告を出して日本に条件付き降伏を求める、(2)原爆を投下して日本を無条件降伏させたうえで、恩恵として皇室維持を認める、の二つだった。だから、スティムソンは、5月末の段階で最後通告を出すのは時期尚早で、日本や他の連合国の反応、アメリカ世論の動き、大統領の意向の変化などを見定め、なにより原爆の実験の結果を見てから出すべきだと考えたのだ。

 実際、部下のマクロイが非公式に大統領とジェイムズ・バーンズ(このあと7月初めから国務長官になる)の意向を探ったところ、アメリカ国民に弱腰だと思われることはしたくない、最後通告については後に予定されているポツダム会議の議題としたいということだった。

 こういったなかで、グルーやドゥーマンは熱意を失っていったが、それと反比例してスティムソンは強いイニシアティヴを発揮して、皇室の維持条項を含んだ最後通告をトルーマンに発表させることに積極的に取り組んだ。そして、7月2日に最終版を仕上げて、ポツダムに向かう大統領に渡した。これがポツダム宣言案になった。

 このことから、ポツダム宣言案の作成者をスティムソンとする歴史学者が多数いるが、ハーバート・フーヴァー研究所所蔵の「ドゥーマン文書」に残る文書から、やはり作成者はドゥーマンで、スティムソンはその改訂者とすべきだということが筆者の調査でわかった。

 スティムソンが大統領にポツダム宣言案を渡した1日あとに、天皇制維持条項を復活させたポツダム宣言案についてのメモをグルーが国務長官バーンズに渡した。だが、そのまた翌日に開かれた国務省のスタッフ会議で、グルーのメモは国務省の意見を代表したものではないので取り消すという決定がなされた。そして、それはポツダムに到着したアメリカ政府首脳に電報で伝えられた。

 ポツダムでの会議が本格的に始まろうとしていた7月16日、アラモゴードで原爆の実験が成功したという知らせが、スティムソンの口からトルーマンに伝えられた。これによって、トルーマン(そしてスティムソン、バーンズも)は原爆を使用して日本を無条件降伏に追い込むという選択肢を取ることを決意した。

 じつはトルーマンはポツダム宣言を出すことに必ずしもこだわっていなかったのだが、スティムソンが催促するので、かつ、のちに予告なしに原爆を使用したと非難されることが予想されるので、皇室維持条項を削除したのち、7月26日にこの宣言を世界に向けて発表した。原爆投下の指令がトマス・ハンディ陸軍参謀総長代理から戦略空軍司令官カール・スパーツに伝えられたのは、この前日の7月25日だった。

 こうして、もともと皇室を護り、原爆投下とソ連の参戦を防ぐために考え出されたポツダム宣言は、作成者の意図に反し、最も重要な条項が削られ、原爆投下の口実づくりのために利用された。

 しかし、軍国主義者と日本(天皇)および日本国民を峻別し、前者にのみ戦争責任を問うという本来の枠組みと言葉遣いはそのまま残された。そして、あとに残った次の文言によって、日本側に皇室を廃止する意向がないことを暗に示すことができた。

 12.日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。

 この「日本国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府」の部分は、国民が自由に表明すれば立憲君主制のもと皇室が存続できることを暗にいっている。事実、天皇、木戸幸一内大臣、東郷茂徳外務大臣、および彼らの側近たちはそのように受け止めた。『GHQ歴史課陳述録・上』に収録されている木戸の証言によれば、天皇は8月12日にこの第12条に言及し、「国民が皇室を信頼して呉れるならば、それを国民が自由に表明することによって、皇室の安泰も一層決定的になる」との確信を彼に述べている。だからこそ最終的にポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させることができたのだ。

罪悪感を植え付けた洗脳プログラム


 このような歴史的事実を知ってもなお、志位氏はポツダム宣言が「日本の戦争は誤りだ」と断じたものだと言い張るだろうか。もしそうだとすれば、彼は占領中GHQが日本のメディアを総動員して行なった「ウォーギルト・インフォーメーション・プログラム」、つまり日本および日本国民に戦争責任を負わせ、罪悪感を植え付ける洗脳プログラムの犠牲者だといえる。

 GHQは、ポツダム宣言の趣旨と目的を無視し、このプログラムに従って戦争責任は軍国主義者や軍閥だけにではなく、日本および日本国民にもあるとするプロパガンダを行なった。そして、戦争中日本軍がいかに悪を働き、アジアの民を苦しめてきたかを日本人に対して宣伝した。日本人の目をアメリカ首脳が平和と人道に反する大罪である原爆投下を実行したという事実からそらし、日本軍の戦争犯罪のみを極東国際軍事裁判で裁くことを日本人に受け入れさせるためである。これについての詳細は拙著『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)に譲る。

 志位氏は、彼らにとって不倶戴天の敵であるアメリカが、洗脳プログラムによって日本人に植え付けたものだと知ってもなお、「日本の戦争は誤りだ」、その責任は日本(天皇)および日本人にあると言い続けるのだろうか。誤ったのは軍国主義者であり、日本(天皇)および一般日本国民は、戦争の加害者ではなく犠牲者だというポツダム宣言の、その作成者ドゥーマンの、認識のほうが歴史的現実に近いとは思わないのだろうか。イデオロギーはしばらく脇に置いて、日本人として、虚心坦懐に歴史的事実を見てもらいたい。

ありま・てつお 1953年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。93年、ミズリー大学客員教授。現在、早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。近著に『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)、『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(新潮社)などがある。