崩れた力の均衡


 明暗ははっきり分かれたのだ。

 打越信夫は八十数人の組員を擁(よう)するとはいえ、それをはるかに上回って巨大化した山村王国の重圧をひしひしと味わい、窮地に追い込まれていったのである。

 だが、打越信夫の手中にはまだ切り札がしっかりと握られていた。

拳銃で撃たれ、手当てを受けるため病院を訪れた山口組の
田岡一雄組長(右から2人目)=昭和53年7月11日、
兵庫県尼崎市
 それは神戸山口組という強大な背景である。安原政雄との兄弟の縁組が継続するかぎり、いくら山村組でも下手に打越信夫に手出しできるはずはない。山口組こそ打越信夫の最大の頼みの綱であった。

 山口組を後ろ楯に、いたずらに事を構える気はさらさらないが、しかし、負け犬になって尻尾を巻き、憐れみを乞う必要もない。打越信夫はそう判断した。

 戦機は熟していた。

 力の均衡はいまや危うい綱渡りとなって、一瞬の油断も許されぬ情勢にあった。

 こんなとき、えてして情報は幾重にも屈折して飛び交うもので、それが火に油を注いだ。

 抗争事件の前哨戦は、意外なところから意外な形で火蓋(ひぶた)を切った。

 昭和三十七年六月二十七日。この日、山村組の網野光三郎、原田昭三、美能幸三の三人は久留米の浜田組二代目の襲名披露に出席するため、それぞれ若衆一人をつれて広島から小倉行きの飛行機、東亜航空コンベア機に乗りこんだ。

 三日後の六月三十日、網野光三郎、原田昭三、美能幸三の三人は小倉工藤組の工藤玄治組長の舎弟・松岡武から奇妙な情報を伝えられた。

 「打越はな、宇部の岩本組組長・岩本政治をさしむけて、福岡空港での帰途、あんたら三人を殺(や)れ、と命じたらしい。気をつけて帰られるがいい」

 松岡武はそう、注意を促している。

 三人は愕然(がくぜん)として顔を見合わせた。

 旧岡組の網野も原田も、いまでは山村組に吸収されて山村組の構成員となっている。だからといって打越信夫に命を狙われる筋合はない。二人とも打越信夫とは舎弟の盃を交わしており、打越を兄貴として親交を保っている間柄ではないか。たまさか道で会っても、笑って歓談する仲である。

〈その打越の兄貴がなぜおれたちの命を狙うのか……〉

〈なぜなのだ――〉

 三人は命を狙われることに対する怒りとともに、山村組と打越組とを取り巻く事態の複雑さに、いまさらながら暗然とする思いであった。

 暗い予感が三人を襲った。

 「危ない……。ぐずぐずできん。すぐ広島へもどろう」

 三人の意見は一致した。

 「そのほうがええ」

 松岡武も口を添えた。

 三人は翌日に控えた浜田組の二代目披露宴に出席することもなく、祝儀を松岡武に預けたまま、とるものもとりあえず広島に飛び立った。

 広島へもどった三人は、その足で血相を変えて打越組に向かった。

 途中、服部武の実弟・服部繁と永田重義の二人を加えた一行五人は、胸中煮えたぎるような怒りで、小刻みに身を震わせていた。

 「打越というあんな男を兄貴分にもつとは恐ろしいことだ。それならこっちから盃を突っ返してやろうやないか」

 五人は打越信夫に面会すると即座に、盃を水にするといい放った。

 その声はぴーんと張りつめて殺気だっていた。

ミステリアスな情報


 一方、打越信夫は三人の暗殺説の出所が自分だときいて、身におぼえのない“黒い情報”にただ呆然(ぼうぜん)と立ちすくんでいた。

 「このデマ情報はまったく根拠のないことで、とつぜんのことだし、びっくりするばかりだった。この裏にはだれか仕組んだやつがいる、と直感的に思った。しかし、そのときはそんな余裕はなかった。わたしは自分がだれかの罠(わな)にかかりつつある危険を知ったのだが……」

 打越信夫はそう述懐する。

 汚名はみずからの手でそそがねばならぬ。

 夏の太陽が灼(や)けつくように暑い七月二日の真昼だった。打越組と山村組の危ういバランスを破壊しかねない“黒い情報”が飛び交うなかを、打越信夫は盟友の岡組組長・岡清登とともに真相究明に奔走していた。

 〈――いったい、だれが、なんの目的でデマ情報を流したのか。徹底的に捜しだして殺(や)ってやるのだ!〉

 身におぼえのない嫌疑をこうむった打越信夫のはらわたは煮えくり返っている。この、わずかな地鳴りは、やがて広島地下帝国を揺るがすほどの大爆発を誘発するであろう。

 〈――これはどえらいことになるで……〉

打越信夫の背筋に張りつめた緊張が走った。

 噂(うわさ)の出所を確かめるべく打越信夫は山村組に立ち寄り、その足で元岡組組長・岡敏夫のもとへ赴(おもむ)いた。

 岡敏夫はもともと打越信夫が神戸山口組の重鎮・安原政雄と結縁(けちえん)することを快く思わなかった人物である。日ごろから岡は広島やくざのモンロー主義を掲げて渡世を生きてきたスジ者であり、強大な山口組が広島を制圧することに危惧(きぐ)の念を抱いていた。

 したがって彼は打越信夫と安原政雄の盃に極力反対であったが、美能幸三ら周囲の説得もあって不承不承(ふしょうぶしょう)縁組の取持ち役を買ったといういきさつがある。美能幸三の手記『仁義なき戦い』(サンケイ新聞出版局刊)によれば、盃を水にした五人は“福岡空港謀殺計画”をキャッチした際に岡敏夫を訪問、その経過を説明し、意見を求めている。

 そのとき岡は五人に向かって明快な断をくだしている。

 「すぐに盃を水にせい!」

 ――打越信夫は岡敏夫に会って“黒い情報”の出所とそのいきさつについて詳細を確かめようとしていた。

 だが、岡敏夫は、その件については打越信夫に曖昧(あいまい)な言葉しか与えなかった。

 打越信夫は納得のいかぬまま胸にわだかまりを残し、そそくさと立ち去らねばならなかったのである。


 すでに打越組はこのミステリアスな情報に翻弄(ほんろう)されていた。

 疑惑がすっぽりと組員を包んでおり、組員たちは真相の究明を固唾(かたず)をのんで見守っていた。

 さらに打越信夫にとって不幸なことは、この怪情報によって疑惑を一身に浴びている最中、もう一つの事件が並行していたことである。

指をつめる


 打越信夫の舎弟である宇部の岩本組(組長・岩本政治)系に青木組というのがある。光市に地盤をもつ博徒だが、その若衆が昭和三十七年七月一日、徳山市を根拠とする浜部組(浜部一郎組長)の組員を射殺するという事件が起きた。

 浜部一郎組長は山村組幹部・樋上実の兄弟分であることから、この下部組織の対立抗争はそのまま打越組対山村組の確執における危険な火種となった。

 打越信夫は事態を穏便に収拾すべく、みずからケンカの仲裁を買ってでたのである。

 さっそく和解の地固めの会合が、広島市内八丁堀中ノ棚の喫茶店「巴堂」で開かれた。

 出席者は打越信夫、岩本政治それに浜部一郎の兄弟分にあたる山村組・樋上実の三者会談である。

 たがいにいい分はあったが、事件の解決をのぞむ熱意がどうやら三者の了解点まで達した。

 これで事件は一応、落着したかにみえた。だれしもが二日後に険悪な事態を迎えようとは思いもしなかった。

 その日、七月一日。打越信夫、岩本政治、樋上実の三人は改めて市内「寿司福別館」で仲直りの座をもち、酒を汲(く)み交わして歓談し、和解は完全に成立したと思えた。

 だが、その会合がお開きになった夕方五時、宇部に帰る予定の岩本政治は徳山で途中下車し、そのまま目を血走らせて、単身、浜部組長宅に殴り込みをかけたのである。

 岩本政治は殴り込むや、玄関口にいた浜部組の若衆にビンタを二、三発くらわせ、懐中にしのばせていた拳銃を三発発射して蹴散らし、宇部の岩本組事務所にもどったのである。

 これを知って樋上実は激怒した。

 「仲直りはやめや! 仲直りの舌の根も乾かぬうち、岩本のやつ、浜部を急襲しよって!」

 まったく道理のとおらぬ襲撃である。

 浜部はてっきり打越と岩本とがぐるになって、和解の話合いをすすめる一方、浜部組との抗争準備の時間稼ぎをしていた、と思いこんだ。

 打越信夫は窮地(きゅうち)に立たされた。舎弟分の岩本が、兄貴分でしかも仲裁人である打越信夫を無視して暴走した格好になったからである。樋上実ははげしく打越信夫に詰め寄った。

 「仲裁人の責任をとってもらおうか。しかも、岩本はあんたの弟分やないか」

 正念場に立たされた打越信夫は、岩本に詫(わ)びを入れさせようと、当時の打越組若衆頭・山口英弘ら若衆二人をつれて説得に赴いたが、岩本は頑(がん)として首をたてにふらない。

 「樋上がなんや。この岩本は一人になっても山村組を相手にケンカしたるで」

 打越信夫の説得工作は失敗した。打越信夫はこの不始末の責任をとって詰め腹を切らねばならなくなった。二日後の七月三日午前十時ごろ、打越信夫は極道のしきたりとしてみずからドスを右手に、左小指を第二関節から切断。その小指を持って山村組に詫びを入れたのである。

 岩本政治は身長一七二センチ、体重六三キロのひきしまった筋肉質の体躯(たいく)である。

 打越信夫によれば、岩本は性格はおとなしいが、一度怒ると、やられてもやられても突っ込んでいく執拗(しつよう)な男だったという。人相は堅気タイプのやさ男で、昭和二十六年、打越信夫の舎弟になっている。

 打越信夫は岩本政治をつぎのように評している。

 「岩本が殺人罪で広島刑務所にはいっていたことがある。が、この間、岩本の親分である宇部の一松組組長・一松実男が、興行の木戸入場のもつれで甲斐組の若衆に殺される事件が起きた。その殺した男がおなじ広島刑務所にはいってきたのを知った岩本は、ひそかに復讐を企(くわだ)てた。たまたま刑務所内での相撲大会のとき、岩本は好機とばかり隠し持ったノミで相手を刺し殺したのです。度胸もあり、肚(はら)もすわっていて、その荒っぽさでは広島やくざも一目おいていた男でした」