危機に立つ打越組


 “福岡空港謀殺説”に加えて、岩本組対浜部組の抗争事件の仲裁に失敗した打越信夫は四面楚歌(しめんそか)であった。あまつさえ小指を切断して山村組に詫びを入れなければならなかった。

 打越信夫は、迫りくる山村王国の圧力をひしひしと感じざるをえなかった。

 七月四日、打越組はさらに重大な窮地に立たされた。
 この日、真夜中の零時五十分、打越組事務所で不吉な予感をかきたてる電話が鳴った。

 岡清登からだった。

 「いったい、なにが起こったのか……」

 幹部FとMの二人は、岡清登に呼びつけられて人影まばらな夜の広島を車で疾駆した。

 焦燥と不安が、寄せる波のようにじりじりと二人の胸をしめつけていた。

 岡清登は、二人の到着を待ちかねたかのように、まず打越組組員であることを確かめると、こういい放った。

 「いまな、山村組のところから連絡があったのだが、すぐ打越道場のバクチをやめさせてくれ、というてきてるのだ」

 FとMは狼狽(ろうばい)した。

 博奕打ちに賭場を閉鎖せよ、ということは“死ね”というのにもひとしい。糧道を断つことを意味するこの言辞は、あきらかに山村組の挑戦とも受けとれるのだ。

 〈また、なにか裏で動きがあったのか……〉

 FとMは不安げに顔を見合わせていた。

 以心伝心であった。

 この直感は、この渡世で生きる者だけが感知できる動物的な防衛本能といってよい。

 バクチをやめろ、ということは組の運命を賭けた重大事である。二人は黙ってここを引きさがるわけにはいかなかった。

 「バクチをやめろとおっしゃるのは、いったいどういうことです。それに、どうして美能らは舎弟盃を水にしたのか、あわせてその理由もおたずねいたします」

 組の運命を賭けてFとMは、慎重に言葉を選んで岡清登に食いさがった。

 岡清登はこの反撃の質問を軽くいなした。

 「バクチをやめろ、というのは山村のいい分だ。もう一度、山村が小倉工藤組の松岡さんに連絡して真相をきいてみる、といっている。明日になったらすべてわかるだろう」

 福岡空港謀殺説の核心も、ついに岡清登の口からきかれずじまいであった。

 FとMはむし暑い夜をむなしく帰途についた。

 打越組はこれからいったいどうなるのだろう。二人の胸中には複雑な思いがあった。

 打越組事務所では組員全員が首を長くして二人の帰りを待ちわびていた。すでに時刻は午前五時をさし、夏の夜は白々と明けそめていた。

 F、Mの報告に、組員の憤激は頂点に達した。着せられた濡れぎぬをなんとしても真犯人に叩きつけねばならなかった。

 二人の報告がすむと組員全員で善後策を協議したが、その最中、ある人物を軸にこの架空の情報を整理していくと、奇妙に符合することが判明した。その人物というのはだれか……。

 「その人物というのは美能幸三です」

 打越信夫はそう断言するのだ。

 「わたしが福岡空港で三人を暗殺せよ、と指令したとか、また打越道場のバクチを中止せよ、だのと、これはあきらかに山村組の挑戦と受けとれた。なかでも美能が絵を描いて打越組を解散させるつもりだったのだと思う。後日、死んだ原田昭三から直接きいたのだが、小倉工藤組の松岡さんに三人で会ったとき、美能は自分と松岡さんの二人だけで会談し、網野と原田は旅館の別室で待たされたという。このとき、美能が松岡さんに“われわれ三人は打越のさしむけた岩本に狙われている”とデマを吹き込んだことが、どうやら噂(うわさ)の発端らしい」

 としているのだ。

三代目舎弟盃


 真相は美能幸三の策略的な動きからでたデマ情報だ、ということで打越組は殺気立った。

 「美能はいったいなんのつもりだ。打越組をつぶす気か」

 打越組の憎悪は美能幸三に集中した。

 しかし、すでに五人の舎弟から盃を突き返された打越信夫の大きな打撃は、いまさら拭(ぬぐ)いきれるものではなかった。強敵(ライバル)山村組内の幹部・実力者たちと結縁していることによって、かろうじて力のバランスは保たれていたが、いまや打越信夫は完全に孤立化した感さえある。打越信夫にとって頼れるものはただひとつ、神戸の山口組のあと押しだけであった。

 はたして、それから十日ほどたった七月十七日、打越信夫と兄弟分である山口組の重鎮・安原政雄が広島へ乗りこんできたのである。安原政雄の狙いは、いうまでもなく情勢不利な打越信夫の立場を挽回(ばんかい)すべく、てこ入れをはかることであった。

 それには事態の悪化を防ぎ、あわせて打越組に戦力をつけるため、とりあえず水に流した舎弟の盃の復縁を取り持った。

 さすが山菱の金バッジの威力は底しれぬものがあった。安原政雄の根回しは功を奏し、八月三日、安原政雄の仲介で市内の「清水旅館」に集まった網野光三郎、美能幸三、原田昭三は一方的に絶縁したことを打越信夫に詫び、舎弟盃を改めて受けることを承知したのである。

 さらに三日後、山口県湯田温泉の「松政旅館」の一室で、打越信夫に強引に指つめをさせたことへの謝罪も含めて、美能、網野、原田ら、もと舎弟一同がふたたび打越信夫の盃を受けることを確認し、下関の合田組組長を仲裁人にたて、正式に手打ち式を挙行したのである。

 打越信夫は有頂天だった。

 それと同時に山口組の山菱のバッジの威力をまざまざと思い知り、三代目の直系若衆となることを強く望んだ。それは、打越信夫にとっては一日でも早ければ早いほどよい。そうなればさすがの山村組も手をだせなくなるであろう。

 こうして打越信夫は山口組との“盃外交”にのりだす一方、八月八日、市内の料亭「魚久」で防府の田中組組長・田中清惣を舎弟に岩国中村組組長・中村展敏を若衆の系列に加え、巧妙に外堀を固めていった。

 こうした打越信夫の神戸山口組への働きかけは、ついに九月二日、山口組三代目であるわたしの直系の舎弟盃を受ける段どりにこぎつけることにより、ようやく実をむすぶのである。これを契機に打越組を打越会に改称した。

 いまや打越信夫は、広島やくざにあってあなどれぬ勢力として完全に息を吹き返しつつあった。

 翌昭和三十八年二月十八日、離反していった元舎弟一同は、安原政雄のお声がかりで打越信夫との復縁を余儀なくされた。

 この日、改めて山口組若衆頭・地道行雄、安原政雄、中森光義(名古屋鈴木組組長、昭和三十七年八月二十四日、打越信夫と兄弟の盃を交わす)の取り持ちで舎弟盃がふたたび交わされたのである。式場は市内「寿司福別館」であった。いならぶ山口組の大幹部が磐石(ばんじゃく)の睨みをきかせるなかで“旧七人衆”の服部、美能、小原、網野、永田、原田、進藤らは打越信夫を兄貴分とする盃を飲みほさねばならなかった。打越信夫は安堵(あんど)の胸をなでおろし、上機嫌であった。

 〈すべてがうまくいった。これで山村組にふたたびくさびを打ちこむことができたのだ〉

 勢力の回復はなった。