広島戦争、火蓋(ひぶた)を切る


 上機嫌の打越信夫は三日後の二月二十一日、晴ればれとして、沖縄へ観光旅行に旅立ったのである。

 しかし、打越信夫がほっとしたのも束の間、事態はめまぐるしく変転していった。もともと錯綜(さくそう)した人脈で構成された広島やくざ地図は、それだけに一度均衡が破れると復元することは至難の業であった。打越信夫が沖縄観光旅行に浮かれていた同月二十七日、安原政雄、山本健一、松本一美ら山口組大幹部はある決意をもって広島を訪れていた。

 三人は「観音山荘」に宿泊すると、打越会にこういい渡した。

 「打越会若衆頭・山口英弘を破門せい!」

 この唐突な至上命令に打越会内部は色めきたった。そして対策会議を続行中の翌二十八日、打越信夫が観光旅行から帰ってきたのである。

 打越信夫は狼狽し、驚愕(きょうがく)した。山口英弘は信頼していた若衆頭であり、自分の片腕でもあった。

 それを破門せい、とは……。

〈――畜生、美能のやつ、また山口組のケツをかきおって〉

 打越信夫は咄嗟(とっさ)にこれは美能幸三が描いた“絵”だと判断した。

三代目山口組の山本健一若頭
 「たしかあのころ、山村はうちの山口(英弘)の女房が経営しているバー『ラ・セーヌ』にときどき飲みにきておったようだ。愛人でもおったんやろ。それを知った美能が『山口英は山村組に情報を流している』と山口組幹部の山健(山本健一)さんなどに吹き込んだんだな。美能は山口英がいるかぎり頭を押さえられていたので、徹底的に山口英を嫌っていたのだ。それで山健さんらのケツをかいて山口英を破門に追い込んだんや
 打越信夫はそう解釈する。

 山口英弘は裏切り者の汚名を着せられたまま破門となったが、これ以後、山村組も打越会も組内の粛清(しゅくせい)をめぐって紛糾(ふんきゅう)することになる。

 打越信夫の話をつづけると、

 「その後、山口組の安原さんと山健さんが『七人衆を舎弟にしたのだから、山村と手を切らせて一本立ちにし、打越会に入れるのが極道のスジやろ』といってきたのです。このことについては美能が強力にてこ入れしたのです。それで美能、進藤、網野、永田、服部が打越会にはいることになっていたのだが、交渉の結果、結局、美能しかはいらなくなった。すると山健さんが『それなら打越にこない他の者は破門せい』といって、美能を除く他の四人を破門にしたのです。これに対して山村は、逆に美能を山村組から破門にし、これでたがいに険悪な状態になっていったわけです」

 つまり神戸山口組の大幹部がなかにはいって荒療治をしてから、広島やくざの分割地図も明確になり、山村組対打越会の対立の図式と人脈が整理されていったのである。

 あとはそれなりの機会さえあれば、広島やくざの両雄が激突し全面戦争になることは火をみるより明らかであった。

 昭和三十八年四月十六日、打越信夫夫人の父・大越作次郎氏が病没(四月十四日)したので打越会本葬を挙行。このとき、神戸はじめ山口組系各組から千人もの参列者が広島(宮島)へ繰り込んできた。山村組への威嚇(いかく)としては十分な効果をあげたのである。

 本葬の翌日の四月十七日、広島戦争の火蓋は切って落とされた。

 美能組若衆・亀井貢が呉市の繁華街、垣川通り八丁目の映画館「二劇」裏の路上で射殺されたのである。

 これが、山村組対打越会の凄惨(せいさん)な戦いの幕あけである。

銃弾飛び交う


 美能組若衆・亀井貢は、その夜、自分が経営するスタンドバー「クインビー」にいた。

 外からの電話で、亀井貢は店をでた。乗用車トヨペットコロナを運転して、店先から中通り方面へ二、三十メートルも走ったところで山村組の元中敏之、中畑良樹、上条千秋の三人と遭遇し、口論となった。

 元中、中畑、上条の三人は山村組の行動派をもって鳴る樋上実の部下である。

 亀井貢は元中と上条とに車から引きずりおろされ、背後から拳銃の台尻で後頭部を一撃された。

 亀井はよろめいた。その直後、至近距離から数発の銃弾を見舞われ、乗用車の車体にべっとりと血のりを残して崩れ落ちた。

 三人は風をくらって逃走した。午後十一時二十分。通り魔のような惨劇であった。

 血まみれになって倒れていた亀井貢は通行人によって急報され、呉共済病院にかつぎ込まれたが、出血多量でまもなく死亡している。右胸部を撃ち抜いた一弾が命とりとなった。

 これが広島代理戦争の発端だが、亀井貢はなぜ殺されたのか。

 山村組幹部・美能幸三が打越会へ走ったため山村組を破門されたのが四月八日である。

 殺された亀井貢も、もと山村組組員であったが、美能幸三とともに打越会へ走っている。

 そのため山村組の行動派・樋上実一派から狙われた、というのが衆目の一致するところであった。

 もともと美能幸三と樋上実とは山村組のなかでも対立関係にあったので、美能の裏切り行為に樋上が部下を使って襲わせた、とみるのである。

 それを裏づけるように、襲撃の首謀者とみられていた樋上実は事件前日に呉からすでに姿をくらましており、警察は指名手配をかけた。四月二十九日夕刻、樋上実は立回り先の徳山市の映画館で逮捕され、元中敏之、中畑良樹、上条千秋の三名も五月十日、殺人容疑で逮捕されている。

 亀井貢殺害のきっかけは美能と樋上との間の確執であったが、その確執は打越会対山村組の抗争を尖鋭化させ、そして、それは山口組対本多会の熾烈(しれつ)な血戦へとつながっていくのである。

 両者の確執はついに血をみるに至った。

 五月十六日、こんどは広島市に飛び火した。

 この日、広島市南観音町二丁目で飲食店「やすべえ」を経営している安田正夫こと安昌奎さん(三十八歳)は、自動車解体業の前田文作さん(四十歳)ら五人とともに、通称中ノ棚とよばれる広島市の盛り場で夕方五時ごろから酒を飲んでいた。

 そのうち、安田さんたちは近くの紙屋町タクシー事務所に打越信夫を訪問しよう、ということになった。

 安田さんはかつて打越信夫の弟分として、広島市横川町一帯に勢力をもっていたスジ者である。

 だが、いまでは足を洗って堅気の生活を送っていた。

 安田さんは酒がはいった気安さから、打越信夫に挨拶(あいさつ)に立ち寄ろうとしたのである。一方、前田さんも職業柄、打越信夫を知っており、「じゃあ、ちょっと挨拶に」と軽い気持で仲間を誘い合っている。

 安田さんを先頭に一行六人が、紙屋町タクシーの二階事務所へつながる階段を登ったのは午後五時五十分ごろである。

 とつぜん、事務所から屈強な男たちが三、四人、気色ばんで駆け降りてきて、安田さんらの行く手に立ちふさがった。

 「なんや、おまえらは」

 「親分はおるかのう」

 「!?……」

 「親分に挨拶にきたんじゃけえ、通してつかあさい」

 そんな短い会話が交わされている最中、降りてきた白のカッターシャツにマンボズボン姿のやせた角刈りの男が、いきなり拳銃を発射したのである。

 安田さんは腹部に一発、銃弾を受けてその場に昏倒(こんとう)し、前田さんはおなじく左足を撃ちぬかれて二カ月の重傷を負い、近くの病院にかつぎこまれた。