戦力後退


 この事件は打越信夫にとっては衝撃であった。おなじ系列下の、いわば味方同士の反目から起きた殺害事件だからだ。

 抗争の原因は両者の縄張り争いで、些細(ささい)なケンカをきっかけに殺しをひき起こしたのである。

 〈こんなつまらんことで、内部分裂が起こらなければよいが……〉

 打越信夫は、ひそかにそれをおそれた。

 岡組も河井組も、つまらない争いごとで反目している場合ではない。当面の敵は山村組という地下帝国である。大同団結して鉄の結束がのぞまれるとき、この不測の事態はなんとも苦々(にがにが)しかった。

 岡組対河井組の内部闘争に進展するかにみえたこの殺害事件は、警察の封じ込め作戦で暴発はまぬがれたものの、打越信夫にとっては薄氷を踏む思いがあった。

 抗争は下火となった。

 当局の強硬な取締りに、ようやく両者は出血の大きさを思い知らされるようになったからである。

 どんな小さないさかいでも県警本部は容赦(ようしゃ)なく取締りにでて、そのつど両者の戦力は大きく後退させられた。

 遅まきながら自戒の念が高まって、両者は一歩退き合って睨(にら)み合うかたちとなった。

 だが、山村辰雄はその間に戦力と資金の立て直しを図っていた。

 翌昭和三十九年五月二十日、山村辰雄は同志を糾合(きゅうごう)して政治結社「共政会」を発足させ、勢力の挽回(ばんかい)にでたのである。

 その傘下に集まったのは、山村組二百五十人をはじめ、かつて宿敵関係にあった村上組百四十人を迎え入れ、さらに浜本組四十人、山口(英弘)組四十人、徳山の浜部組二十人などを加え、準構成員を合わせると傘下七百人という中国地方第一の大組織を結成したのである。

 本部を広島市昭和町に設置し、会長の座には山村辰雄自身が坐った。副会長には村上組の幹部・村上正明を据(す)え、理事長、幹事長には服部武、山口英弘、栗栖照巳らの実力者が名をつらねた。

 山村組は以前を上回る大勢力をもって、打越会との差を大きく開こうとしたのである。

 一方、これに対して打越会は、たびかさなる抗争で山村組以上に戦力は逼迫(ひっぱく)し、組員百十人のほか友好団体は西の岡組、西友会、河井組の各二十人、美能組六十人、小原組百人、地道組二十人、計六団体三百六十人にすぎなかった。

 それでも打越会は、広島市三川町の通りを境界線に山村側と鋭く対峙(たいじ)していた。

 だが、力の均衡からみれば、やはり共政会を発足させた山村側に分(ぶ)があった。勢力は大きく開いた感があり、しかも共政会は力の差を背景にして、市内東部一帯の打越会の縄張りを侵食しはじめる一方、打越会から組員の引き抜きをはじめるなど攻勢にでてきた。

 両者の間にまたしても険悪な空気が醸成(じょうせい)され、八月三十一日、血戦は再開された。

 午前零時半すぎ、共政会山口(英弘)組の楠本富夫、西本義則らの三人がキャバレー「グランド・パレス」前でタクシーを降りようとしたとき、いきなり打越会の島田鞆夫、井上正三、沖扶美男の三人に襲撃されて拳銃四発を乱射された。

 楠本はタクシー内で胸部二カ所を撃たれて即死。西本も車内で両腕を撃ちぬかれて三カ月の重傷を負った。

 広島の盛り場でまたしても血の抗争がはじまった。殺傷された楠本も西本も、もともと打越会組員であったが、共政会に引き抜かれて打越会を去っていった者たちである。

 「背広一着ぐらいで寝返った裏切り者め」

 と島田らの反感を買い、たまたま事件発生の三十分前、路上で双方が口論となり、それが凶行に発展したのである。

広島戦争の終焉(しゅうえん)


 この殺傷事件は両者の憎悪を如実に示したものであるが、十月三日、こんどは呉で共政会住吉組組長・住吉辰三が打越会系小原組組員に射殺されている。

 その日の夕方、住吉辰三は近所の公衆浴場「衛生湯」からでてきた。

 住吉辰三は共政会の実力者、服部武理事長の舎弟である。

 組員七、八人であらたに住吉組を結成して間もなかったが、呉の新興勢力として住吉組の動向は注目されつつあった。

 「衛生湯」から濡れタオルをさげ、ぞうり履(ば)きででてきた住吉は、ゆっくりと帰宅の途についた。

 それを待ち伏せていたように「衛生湯」の横手から、一人の若い男が住吉のあとをつける。市電通りの坂道をのぼり、十五丁目停留所から右へ折れると住吉の自宅である。途中、若い尾行者は路上で待ち伏せていた二人組と合流し、三人で住吉殺害の機会をうかがっていた。

 住吉は暗殺者に狙われていることなどつゆしらず、おそらく湯あがりの火照(ほて)った肌を秋風になぶらせ、いい気分であったろう。

 市電通りから右へ折れ、上田ドレメ学院前まできたとき、住吉は背後から左背部、左後頭部に二発の凶弾を受けて即死した。午後五時すこし前であった。

 広島戦争は、六年間の長きにわたって抗争をくり返したが、住吉辰三の殺害事件を最後に、流血沙汰(ざた)はようやく終りをつげる。

 この間に中国地方五県警の扱った検挙者数はじつに三千二百六十五人、五千百七十三件であり、いかにはげしい抗争であったか、そしていかに徹底的な取締りであったかがわかる。

 昭和四十年六月九日、山村は引退し、共政会二代目会長に服部武が就任した。

 同年八月二十三日、打越信夫は侠道会会長・森田幸吉の世話で山口英弘と手打ちを行ない、ようやく両者の歩み寄りとなった。

 共政会と打越会の手打ちが行なわれ、広島戦争に一応のピリオドを打っのは昭和四十二年八月二十五日(当時、共政会理事長は山田久)のことである。場所は広島市内の料亭「芙蓉別館」、世話人は海生逸一である。

 打越信夫は熾烈(しれつ)、非情だった広島戦争をふり返ってつぎのように述懐している。

 「広島戦争は終結までに六年を要したが、昭和三十八年から三十九年にかけての約一年間が抗争のピークであった。
 その一年間で、わたしは戦費に一億円は使っていると思う。
 山村組もうちも、戦闘服はカーキ色の作業衣だった。抗争当時の事務所の雰囲気は組員全員が血走っていて、目にはいるものすべてが敵にみえた。わたしの自宅付近は警察のジープが二台で、五、六人の警官がいつも偵察していたし、約一年間は当局に見張られていたように思う。
 そのころは自宅には二十人、事務所のほうには五十人を常駐させていたので、出前のソバ屋まで恐がってはいれなかったほど殺気だっていた。
 わたしも本当に夜、ゆっくり眠れた日は一日もない。
 美能幸三が『仁義なき戦い』という本を書いているが、本人は抗争のもっともはげしいときに刑務所入りしているので、抗争そのものの事情についてはあまり知らないはずである。
 それにだ、いくら不満のあった親分であろうと、あんなに親をけなしてはいかん。『泣いた』だの『押入れに逃げた』だのと、あれでは山村は踏んだり蹴ったりだ。あの本によって、広島のやくざ、ひいては全国の極道があんなものかと思われると恥ずかしい気がする」
(※徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』第三部 仁義篇より転載)