第一次世界大戦を経験していれば…


 戸髙 日露戦争はやらざるを得ない戦争でしたけれど、それ以後は日本人の外交感覚の半径を超える時代に突入してしまったと思います。斬った張ったの歴史を繰り返してきたヨーロッパに、技術力や軍事力で追いつきはしたけれど、それと同じような外交感覚は数十年で身につくものではない。やはり第一次世界大戦を知らずに過ごしたことが、その後の日本にとっては致命的な要素となったと言えるでしょうね。

 福田 日英同盟をどう維持するかという問題もありましたけれど、これは日本がイギリスの要請を容れて陸上部隊を西部戦線に派兵しても果たして維持出来たかどうかは分からない。ああいう切られ方はしなかったでしょうが。条約上はインド亜大陸全域が適用範囲の限界でしたから、西部戦線にまで出さなければならない理由はない。明らかにアメリカは日英分断を図っていましたから。

 日本はドイツ潜水艦の無制限襲撃に苦しんでいたイギリスのために地中海に巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣し、艦隊指揮官の佐藤皐藏中将が「地中海の守り神」と称されるほどの貢献をしたとはいえ戦死は七十八人、義理を果たしたという程度でしかないのに対し、アメリカ軍は西部戦線で二万数千人が命を落としている。桁が違い過ぎました。

 ただ第一次大戦の地上戦闘の凄まじさを日本陸軍が肌身に経験することがあれば、その後の日本軍の戦略、戦術、装備の体系などは大きく変わった可能性がある。もちろん当時も永田鉄山とか鋭敏な軍人はいましたけれども、その下の陸大に入れなかったようなクラスが本当に凄惨な近代戦を経験したら、軍の体質を根底から変える契機になったかも知れない。

 戸髙 水雷艇の艇長として日露戦争の各海戦に参加し、戦後『此一戦』を刊行した水野広徳は、第一次大戦中と大戦直後の二度にわたってヨーロッパに私費留学をしているのですが、戦闘の凄まじさに仰天しています。一度の会戦での死傷者が十万とか二十万という数字が発表されて、水野はたまげますが、ロンドン市民はそれを新聞で読んで普通の交通事故の死傷者数を眺めるような感覚でいる、そういう神経を持たないかぎり近代戦争はとてもできないと水野は痛感するわけですね。日本人だったら堪えられない被害規模です。彼がその後反戦平和思想に急速に傾いていくのは、第一次大戦の悲惨さを現場で見たことが大きい。本気の近代戦をやったら一度の会戦で十万単位の人間が死ぬというセンスが、とうとう日本人には分からないまま大東亜戦争に突入してしまった。

 福田 今もフランスで「先の大戦」と言ったら第一次大戦のことです。第二次大戦より第一次大戦のほうがよっぽど死者が多い。普仏戦争でも結構死んでいますけれど、第一次大戦のときは当初誰もあんなに死者が出るとは思わなかった。一カ月で終わって、終わりさえすれば勝敗に関係なく酒飲んで遊べると思っていたのが(苦笑)、四年間も続いて大変な惨劇になった。ヨーロッパにおいては、ソビエトはちょっと異なりますが、第一次大戦のほうが第二次大戦よりもはるかに歴史的意味が大きい。自動車の運転にたとえれば、各国がカーブを曲がり損ねた多重衝突が第一次大戦で、第二次大戦はそのハンドル操作を修正するほどの意味合いでしかありません。

 戸髙 日本人にはその意味で戦争に対する徹底したシビアさがない。体質的に近代戦争ができないと思います。近代戦争というのは情緒が入り込む要素がありません。作戦命令を見ても彼我の間には特徴的な違いがある。たとえば第二次大戦初頭イギリスの通商破壊を大西洋上で華々しく行ったドイツ装甲艦アドミラル・グラフ・シュペー号は、最期はウルグアイのモンテビデオ港外で自沈するのですが、ドイツはわりあい単艦で遠距離作戦をさせていました。日本へも、昭和十八年頃でも連合国の封鎖線をくぐり抜けて、戦略物資を積んだドイツの艦船が横浜や横須賀によく入っています。

 私が史料調査会にいた頃、旧海軍の指揮官クラスの人が日本海軍では出せない命令だと語っていました。なぜなら日本軍では部下が捕虜になることを想定して作戦を立てられない。敵中突破をやらせたら三分の二くらい捕虜になる危険性がある。実際に突破できるなら一割の成功でいいから残りは捕虜になっても構わない。それも任務の内だということでドイツならそういう命令が出せるけれども、日本では自分の命令で部下が捕虜になる可能性のある作戦は立てられない。だから非常に消極的になってしまう。面と向かって干戈を交えるのはともかく、単独で冒険的な作戦をさせることはできない構造になっていると語っていました。捕虜にできないというのは上官としての責任回避という一面もあるのかも知れませんが、日本人としての情の要素も大きかったのではないでしょうか。戦いにおいてアドベンチャーやバーバリズムには徹し切れない。戦艦大和の運用を見ても、決戦兵器のはずがそれに徹した使われ方がなされていません。

 福田 ドイツの場合はイギリスという最強のライバルをいかに出し抜こうかと日夜考えていた。イギリスにしても然り。日本にはそんなライバルはなかったし、そういうセンスは鍛えられようがなかった。価値観のあまり差のない者同士が国内で覇を競っている時代が長かったことの幸福であり、異なる敵とまみえるようになってからは、それが常に日本の可能性を制約し続けたとも言える。

 戸髙 ヨーロッパでは戦争は一種の冒険だった。第二次大戦のごく初期の頃までイギリス海軍には海賊時代の法が生きていて、敵の船を分捕ったら半分は女王陛下に献上し、残り半分は自分たちで山分けしてよかったんです。だから何とか沈めないようにする(笑い)。事程左様に彼我の戦争観は違っていた。日本は明治開国以来、いろいろなものを西欧から取り入れたけれど、その戦争観までは自らの血肉にできなかった。いや、しなかったと言うべきかも知れない。そのことはもっと深い考究が必要でしょう。