職人気質のマイナス面


 福田 戦争観の問題は措くとして、先の大戦では、日本は水準の高い兵器をいくつも持ちながらそれを十分に生かせなかった。あるいは兵器の体系に問題があったということは率直に省みなければならない問題だと思います。山本七平さんがご指摘になっていたことですが、ラインアップ主義というか、いろいろな兵器をつくるのだけれど、一つ一つに統一したデザインや設計思想がなかった。兵頭二十八氏もこの点論じておられます。

 戸髙 職人気質のマイナス面ですね。幕末から明治初期はともかく職人の力量に頼らざるを得ないところがあったけれど、それをそのまま続けてきてしまったところに問題がある。ドイツだったら戦闘機も爆撃機も偵察機も、操縦者用、偵察者用、爆撃者用と三種類ぐらいしか座席のラインアップがない。誰が設計してもその三種類の座席で間に合うようにつくるのに対し、日本の飛行機は全部座席の仕様が違う。中島飛行機も三菱重工業も同じ仕様になっていない。

 福田 各社別々に設計していて、他所のことは考えない。それどころか同じメーカーでも機種が違えばもう部分が合わない。飛行機の本質的な箇所だけ独自設計にして、あとは出来合いでもいいようにすればいいのに、それでは詰まらない、ここに穴を一つ開けたらもっと軽量化できるとか、純粋に設計技術のみの追求に落ち込んでしまうところがあった。

 戸髙 極端な話、同じ図面でつくったはずの中島製の零戦と三菱製の零戦が微妙に互換性がない。落下タンクが装着できなかったりする。中島も三菱も自分のところが一番だというプライドがあるから、ライセンスで共通の機体を生産しているはずなのに、「三菱のやつは野暮な設計してるな」とかいって中島が勝手に変えてしまう(苦笑)。その逆もあったわけで、量産品に対する本質的なセンスがどこか欠如していたことは否定できない。

 福田 戦争以前の問題ですね。職人仕事の完成度を一機ごとに追求はしても、複数の機体に関わる互換性には目配りが足りなかった。しかしそれは戦後の観念で、アメリカが持ち込んだ大量生産とそれを支える品質保持運動を、日本人は敗戦とともに学んだのですね。戦前にはサイバネスティクス的な価値観はさほどなかった。いささか大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、むしろ戦前の日本人にとってそれは屈辱だったかも知れない。何で同じものをつくらなければいけないんだ、俺は自分のかけたいようにヤスリをかけるぜという具合に。そこに支えられていた部分もたしかにあったのです。

 だから、たとえば零戦に搭載された中島の発動機〈栄〉がいい状態で保存されていたとしても、いまの三菱の技術者ではメンテナンスできない。「技術」という言葉の意味がもはや違うからです。職人仕事でものすごくハイパーな勘でつくられたものを、いまの技術者は扱えない。同じ規格で誰がつくっても同じ機体になるという製造センスはアメリカに敗れて日本人は知ることになった。アメリカの物量に負けたとよく言われるけれど、そもそも職人不要の量産品でいいのだという発想がほとんどなかったのですから。

 戸髙 機銃の弾でも微妙に口径が違うとか、口径が同じでも薬莢の長さが違うという状況がありました。戦地に行って山のように弾丸があるのに、持っている銃に合わないということがよくあった。旧日本軍の装備の問題は、実は物量の不足にだけあったわけではない。ここにも装備の互換性が不可欠という近代戦争を経験しなかったことの弱みが出ている。

 福田 これも山本七平さんが書かれていたけれど、もうろくに水がないのに、キャタピラ式で動く自走式で高性能の高射砲なんかが送られてくる。でもいま欲しいのは土を掘るシャベルなのにそれは来ない。その高射砲自体はアメリカ軍にもない新兵器で、ドイツでもやっと導入するらしいというのに使いようがない。それも一台か二台くるだけだから、焼け石に水みたいな戦力にしかならない。それどころか隠すにも穴が掘れないという状況だったりする。第二次大戦は突き詰めれば大量生産競争における勝者が勝った戦争ですから、日本はそこで負けていた。

 戸髙 たとえばソビエトのT34戦車と同じ仕様で日本の戦車設計者が上司に設計図を提出したら、即座に突き返されたでしょうね。砲塔が小さくてとても体格の大きなロシア人には合わないように見えるけれど、量産品として一体鋳造しようと考えれば、当時はあれ以上大きくはつくれない。小さくても兵器として本当の要求を満たすほうが重要視された。