「大和」は本当に時代遅れだったか


 福田 T34戦車にしろカラシニコフ(軽機関銃)にしろ、技術的な水準からすれば大した兵器ではない。カラシニコフなんか銃身が多少曲がっていても撃てる。砂が入っても大丈夫。日本刀のような美しさや完成度はないけれど、技術的な割り切りと割り切ったあとの量産の凄みに対する感度が日本にはなかった。

 戸髙 兵器にかぎらず工業製品は目的があってつくるわけですから、目的に対してどれだけきちっと出来ているかという点で判断しなければならない。そうした意味から戦艦大和を考えると、巷間よく言われているのは時代遅れの大艦巨砲主義に乗っかった「無用の長物」という批判ですね。

 福田 当時の世界の戦艦建造状況を見れば決してそうとは言えない。アメリカにしても日本の大和建造とほぼ同時期に十二隻の大型戦艦建造に取り組んでいます。アメリカは真珠湾で戦艦をほとんど沈められて、太平洋方面で作戦可能だったのが航空母艦だけだったから航空作戦中心になったわけで、新造艦が進水する度に戦場に投入していたことからも、戦艦の運用がすでに海戦において時代遅れのものだと否定されていたわけではありません。

 戸髙 大和建造を決断したのは海軍軍令部と海軍省ですが、そもそも軍艦をつくる過程は、最初に軍令部が五年先、十年先の海戦の様子をシミュレーションする。そしてそれに対応する要求性能を艦政本部に示して、艦政本部の設計者グループがそれに取り組むわけです。大和の設計主任は牧野茂技術大佐でした。起工は昭和十二年十一月、完成後海軍に引き渡されたのが昭和十六年十二月十六日。第一戦隊に編入され、翌十七年二月に連合艦隊旗艦の座を長門から譲り受けた。アメリカ海軍と艦隊決戦をするならば大和は大きな力になり得たはずですが、現実のほうが軍令部の当初シミュレーションより少し先を行ってしまっていた。しかしだからと言って「無用の長物」ではなかった。少なくとも運用を誤らなければ、大和の世界最大最強の威力を示す戦場はありました。

 福田 経済効率から言っても大和に期待されていたことにはある程度の合理性があったと思います。当時はパイロットを一人養成するのも大変でしたから、飛行機を何機も飛ばして魚雷を撃ち込むよりも、アメリカ軍の射程の外側から主砲をガンガン撃ったほうが安上がりだし、相手の弾が届かない所からこちらだけ弾を一方的に撃ち込むことができれば負けるはずはない、という理屈は説得力があった。何と言っても大和の主砲は四六センチ砲で一・五トンの弾丸を四二キロ先に撃ち込むことができた。しかも大和の装甲は四一センチあってこれは大和と同じ四六センチ砲の砲弾に耐えられるように設計された世界一の防御力です。英米どちらにもそんな戦艦はありませんから、日露戦争のときの日本海海戦のような艦隊決戦になれば、その戦闘では勝利した可能性が高い。

 戸髙 設計だけならアメリカもイギリスもできたでしょう。しかし実際に建造する能力は呉の海軍工廠にしかなかったと思います。鉄鋼から大砲をつくり、装甲をつくり、それを組み立てて一隻の戦艦にするという現場の力が当時の日本にあった。大和はさまざまな日本人の力が結晶した存在です。だからこそ使うべき決戦場で使わねばならなかった。

「戦争は始めるよりも終わらせるほうがはるかに難しい」とは言い古された言葉ですけれど、勝利の目がないとすれば、終わらせる方法は降伏するか、講和に持ち込むかしかない。大和はその講和に持ち込むための決戦兵器になり得たかも知れないと考えています。

 大東亜戦争が避けられない戦争だとして私が何か任せられたとしたら、やはり戦艦大和を建造したと思います。そして大和を必ず使う。私なら、まず大和の存在を公表して抑止力として最大限に使いたい。大和の生涯で最も残念なことは――ということは日本にとって残念至極ということですけれど――、使うべきとき、使うべき戦場に投入していないことです。連合艦隊に大和という名刀を使いこなせるだけの名人がいなかったことが残念でならない。