なぜわれわれは「大和」を活かし切れなかったか


 福田 日露戦争の頃の日本海軍は接敵必戦が徹底していましたね。どんな小さな艦艇でも戦いを避けていない。

 戸髙 日下公人さん(東京財団会長)が「いかにして大和を使うべきだったか」について、大艦巨砲主義の時代には、秘密兵器として秘匿するのではなく世界に公開してその能力ゆえの抑止力を働かせるべきだった。次に真珠湾攻撃に成功したあとは、アメリカの太平洋艦隊は壊滅、マレー沖海戦ではイギリス東洋艦隊も壊滅と大和が戦う相手はいなくなっていたから、昭和十七年初めに大和をベンガル湾に派遣してインドの独立運動を支援する態勢を取っていれば、インドからイギリスを駆逐することにつながっていたかも知れない。

 そして最後は、陸上砲撃をする浮き砲台として使う方法があったと三つ挙げられていましたが、私も基本的に同感です。兵器は抑止力をふくめ使わなければ意味がないのですから、最終的な目的は大和の保存ではなく、大和を使うことによって最大限の戦局展開を図ることになければならなかった。

 福田 ハワイ占領という作戦もあり得ました。陸軍部隊が実際に上陸訓練をしていましたし、山口多聞のプランにもアメリカ本土西海岸への上陸がちゃんと文書化されていた。ハワイを占領し、真珠湾を大和の母港にする。太平洋を渡って日本に近づこうとするアメリカの艦船は真珠湾を拠点にした大和連合艦隊が逐一叩く。

 戸髙 ハワイ占領作戦が正式に中止されるのはミッドウェー海戦の敗北後ですけれど、緒戦の有利な状況下で大和を使う手はいくらもありました。ただ、貧乏海軍がやっとのことでつくった大和を沈められでもしたら取り返しがつかないという意識が常に働いて、肝心の戦闘に使われないまま宝の持ち腐れに終わってしまった。

 日本海軍の作戦で一番いけないのは、指揮官にマイナスポイントを与えないために必ず目標を二つ与えたことです。本題と易しい目標。本選を失敗しても易しいほうをクリアすればその作戦はうまくいったというふうに認定して、責任を問わない。ミッドウェーのときでも、どうでもいいダッチハーバーに何発か爆弾落として、この作戦は成功したということで内部的にケリをつける。

 福田 大抵の作戦に二つ命令が出ていますね。昭和十九年十月のレイテ沖海戦でも、レイテ湾突入と敵の空母が出てきたらそれを叩くと二つあって、どっちを選んでもいいような感じになっていた。サマール沖で米護衛空母群に出くわした大和は、通常弾二十四発、徹甲弾百発の主砲を発射し、それなりの損害を与えはしましたけれど、これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃というのに驚かされる。

 しかも追撃をしないままに反転北上してしまう。この海戦で「武蔵」他多くの艦船を失った連合艦隊は事実上壊滅します。史上最大の海戦と言われたレイテ沖海戦ですけれど、勝っても負けても、大和がレイテ湾に突入してくれていればというのが、戦後この海戦の模様を知った国民の多くの思いだったでしょう。大岡昇平でさえ、『レイテ戦記』でそう書いています。

 戸髙 指揮をとった栗田健男中将は戦後、「敗軍の将、兵を語らず」と寡黙でしたが、海軍記者の長老伊藤正徳にだけは口を開いて、「三日三晩ほとんど眠らなかったあとだから、からだの方も頭脳の方もダメになっていただろう」と判断ミスを認めています(『連合艦隊の最後』)。しかし判断ミスというよりも、そもそも接敵必戦と戦闘目的が徹底されていなかったというのが本当のところではないでしょうか。とにかく当時の作戦命令書とその結果を見ると私は腹が立ってしようがない(苦笑)。譬えは悪いですけれど、金庫破りが金庫を開けた瞬間に満足して帰ってしまうようなところが常にあった。

 福田 作戦命令そのものが内向きなわけですね。

 戸髙 しかもそれがその人の履歴を傷つけないという〝配慮〟でなされている。官僚組織の庇い合いという最もよくない点が現れている。せっかく決戦兵器を持ちながら、運用する人間の側に問題があるから威力を発揮できない。昭和二十年四月六日に水上特攻として出撃した大和は、翌七日に四百機近い米艦載機による波状攻撃を受けて九州坊ノ岬沖に沈没してその生涯を閉じますが、その戦闘ですら主砲はほとんど発射されていない。航空機相手の砲ではないのでそれ自体は仕方ないとしても、これほどの戦艦を十分に戦場で働かせられなかったことをこそ省みる必要がある。言わずもがなですが、それは三千名近い現場の乗組員がそれぞれに力を尽くし、義務に殉じた奮闘を生かせなかった全体の戦略や戦術、指揮の問題です。

 福田 たしかに悲劇的な最期を遂げた大和ですけれど、その大和がいま甦ってわれわれの目の前にある。それは冒頭でも申し上げましたけれど、日本人のつくりあげた一つの歴史的結晶を思わせる作品として、感動を与える偉容を示しています。戦争という要素を抜きにしても心を揺さぶるものがある。そこから発すれば、いろいろ歴史的な事柄、戦艦大和をつくるにいたった近代日本の筋道も見えてくるでしょう。


 ふくだ・かずや 昭和二十三年(一九四八年)宮崎県生まれ。多摩美術大学卒業。(財)史料調査会主任司書、同財団理事を経て平成六年、厚生省戦没者追悼平和祈念館設立準備室(現「昭和館」)に移籍。「昭和館」図書情報部長を経て現職。著書に『日本陸海軍事典』(新人物往来社)、『戦艦大和復元プロジェクト』(共著、角川新書)、『日本海軍全艦艇史』(同、KKベストセラーズ)、『日本海海戦かく勝てり』(同、PHP研究所)など。監訳に『マハン海軍戦略』(中央公論新社)がある。

 とだか・かずしげ 昭和三十五年(一九六〇年)東京都生まれ。慶応大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。平成元年、『奇妙な廃墟』(国書刊行会)で注目され、以後気鋭の批評家として文壇・論壇で活躍。平成四年『日本の家郷』(新潮社)で三島由紀夫賞、八年『甘美な人生』(同)で平林たい子賞、十四年『地ひらく』(文藝春秋)で山本七平賞を受賞。近刊に『乃木希典』『山下奉文』(文藝春秋)、『イデオロギーズ』(新潮社)など。慶応大学教授。