何でも安倍総理のせい?


 くどいようだが「周辺」を外しても警告射撃すらできない。それを「抜本改正」と呼べるのか。百歩譲って、そこは立場の違いと認めてもよい。視点が違えば、見える風景も変わる。私が許せないのは、朝日ら護憲派が南シナ海問題を「今回の安保法制」として論じていることだ。

 朝日は「将来的に海上自衛隊が警戒監視活動を担う可能性がある」というが、防衛大臣が認めたとおり、現行の防衛省設置法を根拠に「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究」(4条)として、いつでも活動できる。現に今も東シナ海などで警戒監視している。

 かつて9・11の同時多発テロ直後、横須賀から出港する米空母を、海自の護衛艦が名実とも・護衛・したが、その際の法的根拠もこの「調査研究」名目だった。これに「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる」と明記した自衛隊法95条の「武器等の防護のための武器の使用」を併用すれば、選択肢は際限なく広がる(かもしれない)。当時そう朝日新聞紙上で、「歯止めのない拡大解釈につながる危険がある」と批判したのは他ならぬ私である(2001年9月25日付)。

 朝日陣営が一貫して、そう批判し続けてきたのなら咎めないが、今や誰もそうは批判しない。他方で存立危機事態(集団的自衛権)や重要影響事態の「危険」は言い続ける。「立憲主義や平和主義が揺らぐ」と批判する。それは、いかなる理由からなのか。

 想像できる理由は一つ。そもそも現行法制を理解していないから。証拠を加えよう。

 五月二十六日の「報道ステーション」(テレビ朝日)は「国の形を変える論戦が始まった」と国会審議を報じた。コメンテーターの立野純二・朝日新聞論説副主幹が「平和主義の原則を変える重要な法案なのに説明があらっぽい」など定番の独演をしたが、問題は中国の国防白書を報じた次のコーナー。立野副主幹がこうコメントした。

「この安保法制が出来た後に自衛隊が南シナ海の警戒監視に行くことになるかもしれません。その際にもし米軍の艦船に攻撃があったら自衛隊はどうするんでしょうか。その米艦船を守るんでしょうか。そうなれば南シナ海の米中の衝突に日本が巻き込まれるという可能性は十分ある。こういったことも論議してほしい」
南シナ海の南沙諸島にあるスービ礁=2015年8月1日撮影(デジタルグローブ提供・ゲッティ=共同)
南シナ海の南沙諸島にあるスービ礁=2015年8月1日撮影(デジタルグローブ提供・ゲッティ=共同)
 六日前の朝日社説(前出)は、彼が書いたのかもしれない。どちらにせよ、間違っている。「この安保法制が出来た後」どころか、廃案になっても、自衛隊が南シナ海の警戒監視に行くかもしれない。そうなれば、「米艦船を守る」前に、中国軍の威嚇や挑発を受ける。それは「米中の衝突に日本が巻き込まれるという可能性」より、桁違いに大きな蓋然性である。なぜ、そのリスクは黙認するのか。頼むから、何でもかんでも、平安法の問題にするのは止めてほしい。

 あと二例だけ挙げよう。「安保法制国会―リスクを語らぬ不誠実」と題した五月二十八日付朝日社説はこう書いた。

「戦闘現場になりそうな場合は休止、中断し、武器を使って反撃しながらの支援継続はしないと説明するが、休止の判断は的確になされるか、それで本当に安全が確保されるのか」

 一般論なら右の疑問はあり得る。ただし平安法(固有)の問題ではない。なぜなら現行の周辺事態法や過去の特措法にも当てはまるからである。たとえばイラク派遣でも。逆に言えば「リスクを語らぬ不誠実」は派遣当時の小泉純一郎内閣にも当てはまる。同様に、その前日付朝日社説「真価問われる国会―なし崩しは認められない」もこう書いた。

《不意を突く砲撃や仕掛けられた爆弾などによる被害を百%防ぐことなど不可能ではないか。前線の他国軍を置いて自衛隊だけが「危ないので帰ります」などと本当に言えるのだろうか》

 これも現行法や過去の特措法に当てはまる疑問である。いいかげん、何でもかんでも、平安法の問題にするのは止めてほしい。

学者よりも現場の声を彼らに誇りを!


 護憲派は重要影響事態や存立危機事態のリスクは喧伝するくせに、なぜか国連PKOのリスクは語らない。日本人警察官の犠牲者が出たにもかかわらず。多数の外国軍人が犠牲になってきたにもかかわらず。

 私は自衛隊派遣に反対しているのではない。逆である。高いリスクがあるからこそ、民間人でも警察官でもなく、自衛隊を派遣すべきなのだ。今までもリスクはあったし、今もある。たとえば南スーダンPKOや海賊対処の現場において。

 そもそも武器弾薬を扱うのだ。常にリスクはある。それなのに、野党やマスコミは、存立危機事態(や重要影響事態)のリスクばかり言いつのる。対照的に政府はリスクを正面から認めない。マスコミには左右両極の元自衛官ばかり登場する。いつも現場は置いてきぼりだ。

 もはや報道はどうでもいい。与野党の全国会議員に直訴する。

 国会で憲法学者の話を聞く暇があるなら、一度でいいから現場の声も聴いてほしい。できれば、日米が一体化している現場を見てほしい。憲法学者や法制局の「一体化論」が無意味だと分かるはずだ。

 平安法案を閣議決定した五月十四日の会見で(テレビ朝日の足立)記者の質問を、総理はこうかわした。

「PKO活動(略)を広げていくという、新たな拡大を行っていくということではない。(略)南シナ海における件におきましては、これは全く私も承知しておりませんので、コメントのしようがないわけであります。そしてまた、例えばISILに関しましては、我々がここで後方支援をするということはありません。これははっきり申し上げておきたいと思います」

 すべて本心から出た言葉なのか。今後PKO活動は拡大しないのか。南シナ海の件を本当に知らなかったのか。対ISIL作戦の後方支援すらしないのか。万一そうだとしても、なぜそう「はっきり」言う必要があったのか。正直まるで理解できない。以上すべて高いリスクを伴う活動だからなのか。ならば、総理の姿勢は間違っている。リスクを認め、活動の意義を説くべきだ。国民にも部下隊員にも率直に。たとえば以下のごとく。

「建軍の根幹である犠牲的精神、すなわち、名誉ある犠牲心はわれわれの美的概念とも道徳的概念ともきわめてよく合致する。それゆえに、哲学も宗教もこの概念を常に理想としてきた」「今こそ、精鋭の軍人は自らの重き使命を自覚し、戦いの一事に専念し、頭をあげ、高い理想を見つめる時である。剣の刃先を鋭く研ぎすますために今こそ、精鋭の軍人は己にふさわしい哲学をうちたてる時である。そうすれば、そこから、より高次の展望と、自らの使命に対する誇りと国民の尊敬が生まれてくる。栄光の日の訪れを待つ、有為の人士が手にする唯一の報酬は、この誇りと国民の与える尊敬だけである」(シャルル・ド・ゴール『剣の刃』文春学藝ライブラリー)

 宰相が語るべきは「平和」でも憲法論でもない。それらは役人や学者に任せておけばよい。最高指導者が語るべきは右のような「理想」や「哲学」である。日本には戦後一貫それがない。

 総理は部下隊員に「報酬」を与える責務がある。「誇りと国民の尊敬」という報酬を。それがなければ、誰がどんな法整備をしても空しい。安倍総理なら、できるはずだ。


うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。現在、東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)も務める。