地元メディアで跋扈するイデオロギー用語


 現在の沖縄では「辺野古新基地」以外にも、反基地派の造語が氾濫している。辺野古で警備に当たる海保を批判する「過剰警備」、主に琉球新報が沖縄独立論を理論づけるのに使用する「自己決定権」、反基地でなければ沖縄人にあらずと主張する「沖縄人(ウチナーンチュ)のアイデンティティ」などのたぐいである。

 造語自体には特に問題はない。だが反基地派の口から飛び出した途端、その造語は特定のイデオロギーに奉仕させられ、一種のいかがわしさを帯びるようになる。

 紙面で「自己決定権」という造語(この言葉自体は既に存在しているが、本来は沖縄独立論とは関係ない)を執拗に使い続ける琉球新報は6月11日、「併合直後に分断策 明治政府、琉球抵抗に」という記事を1面トップで掲載した。

 明治政府が沖縄の廃藩置県直後、琉球旧士族の抵抗を抑えるため、旧国王から説得させるなどの分断策を提起した公文書が発見されたという内容だ。

 解説記事では「分断策は植民地支配の常とう手段である。名護市辺野古の新基地建設をめぐり、自民党の県選出・出身国会議員に圧力をかけ『県外移設』公約を撤回させ、当時の仲井真弘多知事に埋め立てを承認させた安倍政権の手法とも重なる」と主張する。また、当時の沖縄について「『たとえ国王の命令でも国家のために従わないこともある』と断言する者もあり、琉球のアイデンティティに基づく自己決定権回復を求める潮流は琉球社会の底流に流れ続けた」と分析する琉球大名誉教授のコメントも引用した。

 この記事には、私が指摘した沖縄マスコミの大きな特徴が見事に浮き彫りにされているように思う。「新基地」「自己決定権」「琉球のアイデンティティ」という反基地派の造語の駆使、冷戦時代のまま思考が停止していることを示す「植民地支配」「併合」という表現。これは沖縄独立論にもつながる。廃藩置県と、辺野古移設を進める安倍政権の手法が「重なる」という論理は、時代背景や意義の違いを無視した暴論である。

 前述したが、沖縄の「世論」や「民意」を読み解く場合、こうした記事が沖縄で最大部数を誇る新聞の1面トップを飾っているという現実を前提とする必要がある。そこは、異なる主張を持つ複数の全国紙が競い合う本土と決定的に異なる。

 私なら朝からこういう記事を読まされると胸が悪くなるが、何の予備知識も持たない県民の多くは、反基地派の造語をごく自然に受け入れるようになってしまうだろう。それは一種の洗脳にも似たシステムだ。

 こういう記事を書いている記者の心境とはどういうものなのか、同じ報道に携わる身として私は常々関心を抱いてきた。そこへ、5月29日付の沖縄タイムスに、興味深いコラムが掲載された。

 「事実を客観的に伝えることは大事な決まりごとである。日本ではその公正と中立を『偏らない』ことと同義にとらえる傾向が強いが、欧米メディアでは公正さ(フェアネス)を『弱者』を思いやる姿勢として重んじるという」

 要するに、彼らにとっての「公正と中立」とは弱者を思いやる姿勢であって、そのためには一方の主張に偏っても構わない、というのである。米軍基地問題に関しては、弱者とは基地被害に苦しむ人たちであり、安倍政権に反対する人たちであり、究極的には辺野古移設に反対するすべての人たちのことである。異様なほどの「反基地」の報道姿勢がこのような論理で正当化されるのか、と妙に納得させられた。

 この論理の一番の落とし穴は、当のマスコミが「弱者」の定義をいかようにも決められることだ。私にとっての「弱者」とは、中国公船に領海を蹂躙されている八重山住民である。また、県紙の一方的な報道で稀代の悪人扱いされている辺野古移設容認派の政治家たちである。

 私は一貫して弱者の立場から米軍基地問題や尖閣問題に意見を言っているつもりだが、反基地派はそうは見てくれない。2年ほど前になるが、私は県紙の先輩記者から「権力者におもねっても、権力者の仲間になれるわけではなく、所詮、しっぽのような存在でしかない」と「忠告」されたことがある。

 県紙からすると、私は保守系の市長に阿諛追従するだけの記者だと見られているのだ。国境の島に生きる住民の危機感が全く理解されていないことに寂しい思いをした。

 誰が強者であり、誰が弱者かというのは相対的な問題であり、立ち位置によってさまざまな見方がある。「自分は常に弱者の味方だ」と大声で触れ歩くのは、本人の意図はともかく、自分を全能の神のように勘違いする傲慢さであり、自己陶酔的なヒロイズムではないか。

中国の領海侵犯への「鈍感」が意味する恐ろしき事態


 八重山から見ていると、尖閣を狙う中国の野心はますます目に余る。中国公船「海警」の動きが中国政府上層部の意向を直接反映しているらしいことは、これまでもたびたび指摘してきたが、私が着目したのは5月に起こった領海侵犯の日付である。3日の憲法記念日、15日の沖縄復帰記念日に領海侵犯したのだ。

 前述のように「海警」の領海侵犯は常態化している。今年に入り、6月17日までに17回に達する。月に2~3回のペースだが、それがこれだけ日本の祝日や記念日と重なっているのは、偶然にしては高すぎるように思える。

 昨年は天皇誕生日の領海侵犯もあり、報道を受けた中国ネットでは「天皇への誕生日プレゼントだ」と快哉の声も上がったという。「海警」は県知事選、石垣市長選の告示日にも領海侵犯している。こうなると、日本の祝日や政治的イベントに合わせた意図的な挑発行為と見ていいだろう。

 深読みすれば、憲法記念日の領海侵犯は「平和憲法を破る」などと反対派が攻撃している安保関連法案への当てつけか。沖縄復帰記念日の領海侵犯は「沖縄は中国の領土だ」というアピールか。いずれにせよ、日本国民は「海警」に嘲弄されているのではないか。

 しかしさらに悲劇なのは、当の国民、さらには沖縄県民にも、嘲弄されているという自覚がないことだ。中国の「頑張り」にもかかわらず、県紙も地元紙も、中国公船の航行や領海侵犯をほとんど報じないからだ。恐らく紙面が空いていると思われる日にベタ記事で掲載される程度で、今や領海侵犯がニュースだという感覚すら麻痺してしまっているように見える。

 尖閣周辺で、尖閣の領有権を奪取する意図を持つ他国政府の公船が常時航行を続けている、というのは、私の感覚からすれば異常な状態であり、準戦時体制と呼んでも差し支えない。中国公船が尖閣周辺にいる、という事実だけでもニュースだし、ましてや航行が10日連続とか、20日連続とかに達すると、たとえ領海侵犯がなくても、ただならぬ事態ではないかと思える。

 私が編集長を務める「八重山日報」では、「海警」が尖閣周辺にいる限り毎日、その動向を掲載している。読者からは「八重山日報を読まないと中国船の動向が分からない」という声が寄せられるほどだが、それは私たちが努力しているというより、他紙が努力を怠っているためだ。

 6月3日には新造船の「海警2308」が「パトロール」に加わり、尖閣周辺で初確認された。中国側の報道によると、先進的な電力推進システム、総合横揺れ防止システム、衛星通信測位システム、艦載ヘリの発着台、高圧放水銃などの最新設備が搭載されているという。

 海保は来年3月までに、尖閣警備に専従する巡視船を10隻体制に増強する方針で新造船を進めているが、攻撃側の中国も新戦力を着々と整えている。報道によると、国家海洋局は尖閣周辺で9隻の監視船と4機の航空機を常時投入し、無人機も運用する方針という。さらに、尖閣に最も近い沿岸の浙江省福州市では、国家海洋局が大型船が停泊可能な新基地を建設する方針だ。

 「海警」に加え、6月には中国の海洋調査船もたびたび、尖閣周辺に出没するようになり、巡視船の警告を無視して海中にワイヤーを垂らすなど、調査を活発化させている。

 「海警」は、台風などの悪天候時を除き、尖閣周辺を常時航行する体制を崩さない。中国国営テレビは海警の航行について「無人島を実効支配する方法として、国際的に認められているものだ」と強弁し、既に中国が尖閣を実効支配しているかのような「報道」を展開している。

 日本の漁業者は、今や尖閣にはほとんど近づかない。海保の奮闘がなければ、尖閣周辺の海は中国船だけが跳梁する無法地帯になりかねない。

 沖縄の主要マスコミのように、中国公船の動向に対する日本人の感覚が麻痺してしまえば、まさに中国の思うつぼだろう。中国当局が公言する「日本の実効支配の打破」とは、日本人のそういう心の隙を狙った「心理戦」でもあるはずだ。

 「海警」の航行を異常事態だと思う感覚が日本人から消えてしまえば、そのうち領海侵犯も年中行事くらいに軽く考えるようになる。それは中国軍が一気に尖閣を占拠する絶好のチャンスかも知れない。警備に当たる海保もそれを知っているから「海警」との攻防を「長期戦の覚悟だ」(宮崎一巳石垣海上保安部長)と強調する。海保を後押しする国民、県民の強い思いが求められている。

 尖閣警備に自衛隊が投入されるような現状ではないにせよ、尖閣まで約170キロの石垣市に自衛隊が配備されれば、傍若無人な「海警」も多少の圧迫感を感じるのではないか。とめどない領海侵犯に歯止めを掛けるためにも、八重山で自衛隊のプレゼンスを示すことが必要だろう。

 防衛省が現地調査後、自衛隊配備の結論を出すのは約1年後と見られている。配備が決定した場合の住民、マスコミ、市長、市議会の反応はどうか。八重山を取り巻く厳しい国際環境について認識を共有したい。

なかあらしろ・まこと 昭和48(1973)年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、平成11(1999)年に石垣島を拠点とする地方紙「八重山日報」に入社、22年から同紙編集長。イデオロギー色の強い報道が支配的な沖縄のメディアにあって、現場主義と中立を貫く同紙の取材・報道姿勢は際立っている。著書に『国境の島の「反日」教科書キャンペーン』(産経新聞出版)。