すべてはiPhoneのために


 しかし、それは裏を返すとApple Watchが、iPodやiPhoneのような、そのときの人々の理解を超え、技術やインフラが後から追いつくというような革新的な製品でないことを示しているように思う。Appleブランドの新しい製品に、発表される前から市場の期待が盛り上がり、心待ちにしていた多くの人々が発売と同時に飛びつく。

 それはiPadと同様に、これまでになかったものではなく、これまでにもあったが、誰もビジネスとして大きく成長させることができなかったものを、Appleが先進的な技術と卓越したデザイン力によって再定義したものだ。

 製品の顧客価値を論じているのではなく、Appleの製品戦略が大きく変わったと感じるのだ。それは、いまやその売り上げ規模が、GoogleやAmazonやMicrosoftなどの名だたるIT企業の2倍以上となったAppleが、その地位をさらに磐石なものにしようとするしたたかな戦略だ。

 円グラフは、 2014年と 2015年のそれぞれ第1四半期の売り上げに占める製品の割合を示したものだ。iPhone6/6+の大成功によって、2015年の第1四半期の売り上げは驚異的な数字を記録した。しかしiPhone以外の売り上げの総和をみると、2014年の251億ドルから2015年は234億ドルと逆に減ってしまっている。2015年の第1四半期の売り上げは、ほぼ7割がiPhoneによるものになった。
Apple Press Releaseより作成(単位百万ドル)
 ジョブズといえども、このiPhoneに匹敵するような大成功をもたらす革新的な製品を、また「発明」することは容易なことではなかっただろう。クックが、スマートフォンの市場を拡大して、iPhoneのシェアをさらに増やすことを最も優先すべきだと考えるのは自然なことだ。iPhoneで得られる経験価値をさらに向上させ、iPhoneでなければならない理由をつくる。

 WWDCで発表されて大きな話題を呼んだ定額の音楽ストリーミング配信サービス(Apple Music)も、その戦略の一環だと考えることができる。グラフから分かるように、App StoreやiTunes Storeなどで販売される音楽やアプリなどの売り上げは全体の1割にも満たない。しかし、それらのサービスなくしてはiPhoneのビジネスが成り立たないことは明白だ。Apple Musicから得られる利益も、Appleにとって重要なものではないだろう。元々、Appleとしては利益を度外視しているのではないかと思われるほどの、競合他社に圧倒的な差をつけるための価格設定を狙っていたようだ。

 iTunes Storeからの音楽ダウンロード販売は、ここ数年は頭打ちになっていた。売り上げの数字はともかく、iPhoneの重要なコンテンツである「音楽」を、Appleがコントロールできない他社のストリーミングサービスなどに持って行かれることは大きな問題だった。そして1年前に、ヘッドホンやスピーカーのメーカーであり音楽ストリーミング配信サービスも行っているBeats(Beats ElectronicsとBeats Music)を買収し、その創業者であったDr.DreとJimmy Iovineという人材を手に入れた。

 後出しジャンケンというと聞こえは悪いが、発表されたサービスの内容を見る限りApple Musicは非常に緻密に考えられている。iPhoneというハードウェアのビジネスで稼ぐことができるAppleに対して、音楽配信サービスそのものから利益をあげなければならない競合は非常に厳しい戦いを強いられることになる。

 Apple MusicはAndroidのスマートフォン向けのアプリも提供されるようだが、iPhoneと同じ機能が提供されたとしても、その体験は大きく異なるように思う。Apple Musicは「iPhoneでなければならない理由」の一つになるだろう。

 Apple Watchも、そのような視点からAppleにおける、その戦略的な位置づけを考えることができるのではないだろうか。Apple Watchを購入すると「iPhoneでなければならない理由」ができ、その顧客はAndroidへの乗り換えを躊躇する。Apple MusicやApple Watchが、少しずつ人々の生活を変えればいい。それによってiPhoneが、さらに人々の生活になくてはならないものになっていく。

持続的イノベーションへの転換


 言うまでもなくティム・クックは非常に有能な経営者であり、最高デザイン責任者(CDO)というAppleの新しい役職に就任した上級副社長のジョナサン・アイブも稀にみる優秀なデザイナーだ。二人ともどんな企業においてもすばらしい力を発揮できるだろう。しかし、Appleが次の破壊的なイノベーションを起こすことはできないように思う。

 いや、すでに攻める側から攻められる立場に立ったアップルの経営陣や投資家にとっては、不確実で大きなリスクのある破壊的なイノベーションの取り組みは必要でないのかもしれない。ジョブズがまき散らした種のうち、芽を出して大きく育った木に水や肥料を与えて、毎年できるだけ多くのリンゴを収穫するほうが安全で確実だ。

 ジョブズもそのために最適なティム・クックを後継者に指名したのだろう。自分のようなことは自分にしかできないという彼の自尊心がそうさせたのかもしれない。ティム・クックを指名した時点で、Appleではインクリメンタル(持続的)なイノベーションのための最適化が始まった。

 クックが、iPhoneのシェアをさらに増やすことを最も優先すべきだと考えるのは経営者として自然なことだ。しかし、そこに破壊的イノベーションを仕掛ける挑戦者がでてくる。間もなく、スマートフォンだけが常時インターネットに繋がっているという状況も終わるだろう。挑戦者は、クックのようなしがらみを持たず、大成功しなければならないというプレッシャーもない。まずは蟻の穴をあければいい。

かわて・きょうすけ コンセプトデザイン・サイエンティスト。1990年代から、大手メーカーでインターネットサービスの企画・開発・運用を手がけ、自ら立案したグローバルなサービスを複数立ち上げた経験を持つ。その1つは、サービスのデザインでグッドデザイン賞を受賞した。コンピューターサイエンス関連の翻訳本も多数ある。