「学問、学問」と叫ぶ怪しさ

 この声明は、大沼保昭氏と三谷太一郎氏といふ二人の学界大御所が代表を務め、ざつと名簿に目を通しても、石井寛治氏、入江昭氏、緒方貞子氏、松本三之助氏ら大御所組や、半藤一利氏、保阪正康氏ら昭和史家、加藤陽子氏、中島岳志氏ら壮年世代の学者論客までが、広く名を連ねてゐます。

 全体を通して八項目、約四千字。

 一読、私は、感心してしまつた。

 何よりも感心したのは、歴史談話といふやうな重大な問題に対して、八項目四千字といふ長大な文書に、よくもまあ「学問」の名において、七十四名もの「学徒」が署名をしたといふ、その度胸に対してです。

 全編、失笑したくなるほど「学問」「学問」のオンパレードなのです。「学問」の立場ではかうだから、安倍首相よ、かうしろ、と、著名な「学者」の名を連ね、「学問」といふ言葉をちらつかせての、殆ど恫喝文書に近い書き方が随所に見られる。

「私共、国際法学・歴史学・国際政治学の学徒」は、「学問的立場と政治的信条において、相違があ」るにも関はらず、以下の声明文に書かれた「考えを同じくするものであり」、それを「日本国民」、「国政」担当者、及び「諸外国の方々にも知っていただくことは、専門家の社会的責任であると考えるに至った」と、この声明は、まづ高らかに宣言します。

 が、もし本当に「学問的立場も政治信条も違ふ」学者が大量に署名して、学問の名のもとに総理談話について何かをいふとすれば、たつた一つの道しかあり得なかつたのではないでせうか。

 このやうな重大な争点になり得る首相談話を出す事自体が誤りであり、「村山談話」こそはその誤りの原点だ。安倍首相は、どのやうな立場であれ、その誤りを繰り返さず、「歴史」を、「政治」から知の世界に投げ返して欲しい――これ以外に、「学問的立場も政治信条も違ふ」多数の学者が発出し得る、学問的な声明はありやうがないのではないでせうか。

 さもなければ、逆に、はつきりと、特定の政治信条に立つた有識者のみが集つての「政治」声明だと、嘘偽りない自己規定をすべきなのです。それならば、構はない。
安倍首相の戦後70年談話について、声明を発表する三谷太一郎東大名誉教授(左)と大沼保昭明治大特任教授=7月日、東京・内幸町の日本記者クラブ
安倍首相の戦後70年談話について、声明を発表する三谷太一郎東大名誉教授(左)と大沼保昭明治大特任教授=7月17日、東京・内幸町の日本記者クラブ
 例へば、私も、最近、安保法制の早期成立を求める共同記者会見に呼びかけ人として参加しました。

 これは安保法制の早期成立といふ明確な「政治」目的に対して、有識者として発信するといふ話です。「学問」的中立性など名乗りません。自分に立場的「偏向」がある事を認めた上で、堂々と知的な勝負をしよう、さういふ性質の署名です。

 ところが、この大沼氏らの声明は、「学問」を振りかざしながら、これから見るやうに、全編全くの「政治」文書であり、学術性のかけらもありません。
 政治家の文書である「安倍談話」に較べても、寧ろ、政治信条の一方的押し売りに過ぎず、明らかに知的劣位に立つてゐると言はざるを得ない内容です。

 私は、こんな文書に署名した七十四名の諸氏全員一人一人の家を訪ね、本人に会ひ、目を真直ぐ見ながら質問したい、「あなた、本当に恥づかしくないんですか」と。

戦後の平和と繁栄を支へたのは「贖罪意識」…のはずはない

 第一の大きな欺瞞は、この文書が「戦後の日本の平和と繁栄を支えた原点」を次のやうに規定してゐる事でせう。(項目三)

「台湾、朝鮮の植民地化に加えて、1931―45年の戦争が大きな誤りであり、この戦争によって三百万人以上の日本国民とそれに数倍する中国その他の諸外国民の犠牲を出したことへの痛切な反省に基づき、そうした過ちを二度と犯さないという決意」

 なるほど、これが政治文書ならば、ある傾向の政治勢力に典型的な戦後認識に他なりません。が、この声明は七十四名の学術研究者の名で出されてゐる。当然、学問的な吟味に堪える見解を書くべきであつて、そのやうな意味で、第一にこの数行に含まれる事実認定自体が余りにも争点を多く含むし、第二に、「戦後の日本の平和と繁栄を支えた」のは、このやうな特定の贖罪イデオロギーでは決してありません。

 多くの将兵たちは、戦地で斃れた戦友に、「アジアを頼むぞ」「祖国を頼むぞ」と遺言されて戻つてきました。

 彼らは過ちとお詫びと反省を原点になどしてゐません。戦友の死を無駄にしないために、先づは歯を食ひしばつて日本を復興させようと頑張つたのです。

 我が国が持つた理念は正しかつた筈ではないのか。その正しい理念を、戦争に負けたゆゑにGHQによつて否定された、悔しい――その悔しさをバネにした何百万の人がゐました。彼らの強い思ひを学問の名の下になかつたことにしていい筈がありません。

 一方、ソ連の脅威、日本が共産国になるといふ脅威、左翼イデオロギー・反日イデオロギーから日本を護るために頑張つた多数の日本人もゐました。

 元も子もない事を言へば、そんな理屈は一切関係なく、自分が豊かになりたい一心で頑張つた日本人が一番多かつたかもしれません。

 一方で、勿論、この学者声明が言ふような「反省」に原点を見出した日本人も多数ゐたでせう。それを否定するつもりは毛頭ありません。

 私が言ひたいのは、「学問」の名の下に「戦後の繁栄と平和の原点」を述べるならば、少なくとも、以上のやうな多様な原点がそこにあつた事をこそ明示すべきであり、あるイデオロギー的立場によつて、その他を抹殺するなど到底許されないといふ事です。

 戦争といふのは、どのみち巨大な殺戮合戦です。勝たうと負けようと、戦場で多くの人が殺戮しあひ、また不可避的に多くの非戦闘員をも巻き込みます。声明のやうに、「多数の犠牲者」を出したから過誤だといふ言ひ方をし、その反省に立つとすれば、戦争といふ行為に主体的に関はつた国々が全員同罪になるのは自明でせう。

 更に、アジア地域が植民地だつたといふ問題を抜きに、大東亜戦争を語る事は全くできません。そのやうな歴史の文脈の中に戦争をどう置き、どう評価するかは、人が何人死んだから一方の当事国が悪い、だから反省するんだといふやうな幼稚な世界観では、到底、学問的に処理不可能です。

 欧米による植民地支配、そして大東亜戦争の惨禍にも関はらず、それらの暴力的な過程なしに、現在アジア全域が達成しつつある近代化、技術的平準化、国民国家としての成熟、それによる平和と繁栄の享受が実現できたかどうかは、極めて疑はしいでせう。

 政治的な声明では、植民地支配や戦争の肯定的側面に、不用意に言及すべきではありません。が、「学問」であるならば、戦争=日本の罪といふ一方的で平板な文脈ではなく、世界史的観点に立つて植民地支配や戦争の功罪を公正に位置付けようとするのが当然でせう。

 つまり、本来「学問」の名の下に戦後を要約するならば、戦後の繁栄と平和を支へた日本人の意識やイデオロギーの多様性=分裂性にこそ言及すべきであり、また戦争の性格については、世界史の巨大な構造の中に位置づけるべきなのです。

 余りにも皮肉な話ですが、この指導的な学者七十四名の声明よりも、学者が顔を歪めて冷笑したがる政治家、それも保守政治家の発出した「安倍談話」の方が、以上の二点について、明らかに学術的な良心を担保したものになつてゐます。

 自らの立つ政治的立場がどうであるか以前に、日本の主流派学者らは、自らの平板過ぎる世界観と、多様な歴史の実相を隠蔽する強圧的な姿勢について、お詫びと反省を表明してはどうでせうか。