「1931~45年の戦争」「違法侵略戦争として
国際的に定着」と断じて恥ぢない学者とは

 次の七項と八項は、歴史認識そのものが示されてゐます。連続した内容なので、一体として論じます。

「20世紀前半の国際社会は、第一次大戦の甚大な惨禍を経験して、戦争を違法化する努力を重ねて来ました。1928年の不戦条約はその代表であり、日本も締約国であった同条約は自衛以外の戦争を明確に禁止しておりました。1931年に始まる満州事変が1928年の張作霖爆殺事件以来の関東軍の陰謀によって引き起こされたものであったことは、歴史学上明らかにされております。当時の日本政府はこれを自衛権の行使と主張しましたが、国際連盟はその主張を受け入れませんでした。その後の日中戦争、太平洋戦争を含めた1931―45年の戦争が名目の如何と関係なく、その実質において日本による違法な侵略戦争であったことは、国際法上も歴史学上も国際的に評価が定着しております」

 典型的な東京裁判史観です。が、私が今問ひたいのは、その事そのものではありません。

 この史観は、極めて政治的な動機に端を発します。日本が敗戦し、その敗戦を勝者側のストーリーで処断した、それがこの史観の起源だからです。このストーリーの妥当性が高いか否か、ある論者がそれに賛成するか反対するか、それは様々であつて構ひません。が、そのやうに、明らかに政治的な動機に発し、今日まで学術的正当性以上に政治・イデオロギー圧力として君臨してきた史観に対して、学問の自由や価値判断の多様性、研究の深化をまるで一切遮断するやうに、「国際法上も歴史学上も国際的に評価が定着して」ゐると決めつける、それも七十四名もの歴史・政治学徒が、全一致で決め付けてゐる、異説への恫喝でなくて何なのか。

 論証や実証の厳密を旨とする自然科学においてさへ、ある段階での定説=主流派学説は、絶えず、批判に晒され更新されるのが宿命です。まして、近現代の国際関係論に「定説」などあり得ません。絶えず新たな資料発掘によつて説は流動し続け、解釈の幅は力点の置き方で変はり、現在の政治状況や世論が学問に絶えざる圧力を掛けてきます。

 決して一つの結論に収斂しない、いやさせてはならない。

 もし仮にこの声明が言ふやうに「国際的に評価が定着して」ゐるのなら、猶更、さうした「定説」化を強要する国際社会に、日本の学徒は、学問的良心の自由の名において敢然と抗議すべきでせう。それを「国際的」な「評価」を嵩にきて、世界の定説だから言ふ事をきけと言はんばかりのこの口の効きようは一体何でせう。軍部の意向を嵩にきた戦前の皇国史観と、学問的態度としてどう違ふのでせうか。

日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相=4月29日、ワシントン(共同)
日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相
=4月29日、ワシントン(共同)
 とりわけ、ここで言及されてゐる諸点は、長年に渡る激しい論争の対象です。

 満州事変についての言及、不戦条約との関連付けについては私は異論はありますが、今は紙幅の都合上論じません。

 が、声明の満州事変の記述を認めたとしても、塘沽協定によつて満洲事変の戦争状態が一度終息してゐる以上、「1931―45年の戦争」といふ記述が、史実ではなくイデオロギーによるものである事は明白です。要するに、このやうな見方を許容するとしても、それは林房雄の東亜百年戦争史観と同じやうな意味での史観であつて、学的な史実の要約とは言へません。まして、それを全部ひつくるめて「日本による違法な侵略戦争」と断じ、しかも定説だと押し切るのは、幾ら何でも学的に不可能でせう。この声明では言及を避けてゐますが、日中戦争と日米戦争において、日本側に積極的な侵略意図があつたとは、史実上到底言へません。不用意な戦争、拙い戦争とは言ひ得ても、十五年を纏めて「日本による違法な侵略戦争」だつたといふ議論に対しては、説得的で有力な反論が多数ある、それは、誰にも否定できないでせう。

 それからもう一つ、非常に大切な事を申し上げておきたいと思ひます。

 昭和戦前史に関する日本側の一級史料や、学術研究書の英訳が全く整備されてゐないといふ深刻な問題です。世界中の国際法や歴史学の専門家の多くは、日本語の一級史料や幅広い立場からの研究論文や歴史書を読めません。

 世界の主要な歴史家たちは、日本に関して非常に偏つた史観の資料や研究論文しか読まずに、第二次大戦史や近現代史を論述してゐるのが実情です。

 七十四名もの学者が連署して、史資料や文献の国際社会での極度の不足と偏りを指摘せずに、英訳資料不足の上に成り立つ国際学界での学説を「国際的に評価が定着」してゐるなどといつてゐる。ここまで来ると、恥を知れといふ言葉を使ふ気も起りません。

「過ちを潔く認めよ」といふ欺瞞のレトリック

 さて、声明は、上記のやうに歴史を総括した後、「歴史においてどの国も過ちを犯すものであり、日本もまたこの時期過ちを犯したことは潔く認めるべきであります」と結んでゐます。

 極めて欺瞞的な文章です。「どの国も過ちを犯すものであり」ならば、続く文章は「日本も又この時期過ちを犯したのであります」としなければなりません。

 一方、「日本もまた過ちを犯したと認めるべきだ」と書くならば、この一節は、「どの国も歴史上過ちを犯し、その過ちを潔く認めている以上、日本もまた過ちを認めるべきであります」とならねばをかしいでせう。

 ケアレスミスではあるまい。意図的な述語の入れ替へなのでせう。

 現実には、どの国も過ちを犯してゐますが、どの国も過ちを謝つてゐません。

 日本もまた確かに過ちを犯してゐる。そこまではいい。

 が、日本のみが過ちを認め、しかも総理大臣の名前によつて、謝罪を続けるべきだとすれば、それは何故なのでせうか。

 無数の戦争、無数の過ちをしてゐる世界史の中で、我が国だけが謝罪を続ける事の学問的に説得力のある意義とは何なのですか。この声明ではその説明が全くありません。

 しかも、その後に、全く実情にそぐはない奇妙な文章が続く。

「そうした潔さこそ、国際社会において日本が道義的に評価され、わたしたち日本国民がむしろ誇りとすべき態度であると考えます」

 最早笑ふしかない。

 日本は、戦後さう考へ、実行してきたではありませんか。

 謝れば分つてもらへる、誠意は伝はる。さう考へて善隣外交をモットーとしてきた。

 潔過ぎる位、してもゐない事さへ過ちを認め、財産請求もせずに、必要以上の賠償にも応じ、謝罪を重ねてきた。

 その結果、中国と韓国から道義的に評価された試しがありますか。彼らは日本の謝罪や善意を受けて、日本を一度でも大切にし、尊敬し、道義性を評価したことがありますか。

 やつてゐない罪さへ国際社会で定説化し、現在と将来の日本人の不名誉と不利益が重なつてきたのは、まさに、不必要な「潔さ」の為だつたのではないですか。……

署名者全員の返答を求む

 私は、七十四名全員に、以上諸点を項目に纏めた上、公開質問状を送り、返答を求めると共に、返答なき場合には、ホームページ上に、氏名を公開し、その名を日本及び世界に広く喧伝し続ける運動を展開するつもりです。

 私は、彼らが学問を僭称した事実を決して許しません。

 一人一人が、自らの学問的良心に照らして声明への署名撤回をしない限り、学問の名の下に全署名者七十四名を糾弾し続けるつもりです。

「安倍談話」は発出されてをはりではありません。

「安倍談話」の戦ひは、これから始まるのです。


おがわ・えいたろう 昭和42(1967)年生まれ。大阪大学文学部卒業。埼玉大学大学院修士課程修了。創誠天志塾塾長。著書に『約束の日―安倍晋三試論』『『永遠の0』と日本人』(以上、幻冬舎)、『最後の勝機(チャンス)』(PHP研究所)。『一気に読める「戦争」の昭和史』(KKベストセラーズ)、『小林秀雄の後の二十一章』(幻冬舎)を一挙刊行し、話題沸騰中。