大衆インテリの急増が権威を後押し


 ここまでの説明を読んだ若い世代の人は、進歩的文化人という言葉でいまテレビに出ているちょっと左の立ち位置のキャスターやコメンテーター文化人などを想起するかもしれない。たしかにどんな問題にもいっぱしの嘴をはさみ、政府のやることに文句をつけ、自由や競争より平等を掲げる言論は、進歩的文化人の後裔とはいえる。しかし、いまのテレビのちょっと左のキャスターやコメンテーターはかつての進歩的文化人をかぎりなく軽量にしたものである。キャスターはそもそも学者でも文化人でもない。コメンテーターには芸能人やスポーツ選手がいるし、学者といっても必ずしも一流かどうかは疑わしい人もいる。ところがかつて猛威をふるった進歩的文化人は大物大学教授や一流作家などの文化人がそろっていた。

 いまや学者文化人もただの大学教員にしかすぎないが、進歩的文化人の時代は、学者や芸術家・作家などの文化人の威信は絶大なものがあった。以下に示す1964年におこなわれた職業威信調査(東京都の男性)をみると隔世の感があるだろう。

 第一位が総理大臣(94―スコア、以下同)。それについで東京大学総長(92)が挙がっている。東大総長の威信は、最高裁判所長官(90)、衆議院議長(89)、大臣(89)よりも高かった。いまでも卒業式のシーズンには、東京大学総長の言葉はメディアで報道されているが、スピーチの内容はかなりはしょられている。季語のような儀礼的報道である。進歩的文化人が闊歩していた時代には、「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」(1964年3月の大河内一男東大総長の卒業式式辞。ただしこの言は、原稿にはあったが式場では省かれた)のように、東大総長の式辞は時代の指針の言葉のように詳しく報道され、社会的話題にもなった。大河内総長自身が押しも押されぬ進歩的文化人だった。

 そんな時代だから唯の大学教授でもスコアは83で医師(77)をはるかに離し、大会社の社長(82)よりも高い評価だったのである。であれば、芸術家や作家の威信も高かったはずである。もちろんこの時代の大学教員数と今の大学教員数を比べれば、5万人(1960年)から18万人と3倍以上も膨張した。大学教授のインフレは威信の低下――95年調査では、医師90、大会社の社長87、裁判官87、大学教授84――に影響しているが数の膨張だけが原因ではない。かつての大学教授の威信の高さは、戦後の無い無いづくしの中で生まれた文化国家という目標と人々の学歴志向とが連動しながら、大衆インテリが増産されるなかで学者文化人への畏敬の念が強まったことが大きな要因だった。

 中でも進歩的文化人は、大学教授の中の大物であるから、その威光は格別である。だからかつての進歩的文化人はいまのキャスターやコメンテーターの発言などとは比べ物にならない影響力を行使したのである。当時は、ネットはないし、テレビは萌芽期で普及したときでも娯楽を主とした二流メディアにすぎなかった。活字の印刷媒体こそが権威メディアであったから、進歩的文化人は論壇誌や著書、そして講演、声明活動などで啓蒙活動にいそしんだのである。そう、進歩的文化人の時代というものがあったのである。戦後70年を考えるときに、敗戦後四半世紀以上にもわたって大きな影響力をふるった進歩的文化人群は忘れてはならない社会集団である。

進歩的文化人の巣だった『世界』


 この進歩的文化人の誕生地となり、原型となったものは何か。岩波書店世界編集部の吉野源三郎が音頭取りとなって、共産党員ではない文化人を糾合した平和問題懇談会である。平和問題談話会は1948年12月に平和問題討議会として発足し、「多数講和」(とりあえず米英をはじめとする西側諸国と講和条約を結ぶ)に反対し、米ソを含むすべての連合国と同時に講和条約を結ぶべきとする全面講和、中立不可侵、軍事基地反対を唱える声明を『世界』に発表した。談話会は年長世代の安部能成や大内兵衛などをかつぎながらも、実質的には清水幾太郎・丸山眞男・久野収などが仕切った。かくて『世界』と岩波は、進歩的文化人の本拠地となった。こうしたことから岩波と言うと、進歩的文化人の牙城とおもわれてきたが、それは、1946年1月の『世界』創刊号からはじまったわけではないことに注意したい。岩波書店創始者である岩波茂雄存命のときの『世界』は進歩的文化人の雑誌ではなかった。『世界』は、津田左右吉の皇室を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」論文(1946年4月号)を掲載したように、オールドリベラリスト(安倍能成や小泉信三など戦前からの自由主義者)系の穏健な雑誌として出発した。そのころは、『前衛』(日本共産党中央機関誌)はもとより、『人民評論』『民主評論』『社会評論』『世界評論』『潮流』など左翼系雑誌が目白押しだった。『改造』は「ブルジョア左翼雑誌」とみなされ、『中央公論』は「微温的」といわれた時代である。したがって岩波茂雄存命時代の『世界』は、左派からは、ブルジョア左翼にも達しない「金ボタンの秀才の雑誌」といわれていた。日本共産党機関誌『前衛』の雑誌評では、『世界』は「保守的なくさみが強い」とされてさえいた。

 あまつさえ、『アカハタ』(1948年3月5日)で岩波書店が叩かれるこんな事件もあった。岩波書店が、割り当てられたインディアン・ペーパー(辞典用紙)を煙草巻紙用に横流ししたという記事(「摘発した物を再割当」)である。経済安定本部顧問会議に岩波書店の吉野源三郎が出席していて、長官の和田博雄(農政官僚、のちに社会党副委員長)と示し合せての仕業という記事である。のちにこの記事について事実無根の訂正がなされたが、日本共産党が『世界』を含めた岩波書店を同伴者ともおもっていなかったからこそ、ウラを取った気配の感じられない、醜聞記事を載せたといえる。

 『世界』や岩波の刊行物が左旋回したのは、岩波茂雄没(1946年4月25日)後数年たち、平和問題談話会ができたあたりからである。『世界』は平和問題談話会の声明発表場所となり、かれらの論稿を掲載する場となった。『思想』や「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする岩波書店の刊行物は相互に同種の傾向(進歩的文化)をもつものが多くなった。1949年4月には、岩波新書が表紙デザインは戦前と同じだったが色を赤色から青色に変え(青版)、『解放思想史の人々』(大塚金之助)などで再出発させた。このときに付された「岩波新書の再出発に際して」には、「平和にして自立的な民主主義日本の建設」「世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせ」る、と言明されている。『世界』の平和問題談話会路線とその軌を一にした言明である。刊行物ミックス(併読)効果によって、岩波文化を進歩的文化人と進歩的文化の牙城にしたのである。