覇権的地位からの転落


 かくて大学キャンパスやメディア産業従事者の間では、進歩的文化人のイデオロギーこそが支配思想であり、進歩的文化人が支配階級となった。その時代、進歩的文化人の言説と真逆の物言いをする学者がどんな反応を呼び込んだか…。60年安保の翌年大学に入学したわたしには、ありありと思いだされる。当時、京都大学法学部に大石義雄教授がいた。法学部だけでなく、教養課程の日本国憲法も教えていた。日本国憲法は教職免状を取得するための必須科目であるから、大石教授は法学部以外の学生の間にもよく知られていた。大石教授は、日本国憲法を占領軍による押し付け憲法論として、憲法改正論を展開し、自衛隊については現行憲法でも合憲として、そのことを授業でも開陳していた。だから、典型的な「保守反動教授」とみなされていたが、それだけでおわらなかった。なにかの話で「大石さん」が出てくると、その途端に笑いがおこる、変人・バカ教授扱いだった。誰も反動的文化人になりたくないから、人気を気にする教授連は、反動的文化人とだけはいわれないような立ち位置をとった。左翼に媚びているとおもわれる教授もいた。

 いや他人事ではない。私自身が嘲笑されたことがある。私が大学院生の1968年の冬ごろだった。さすがにこのころは、全共闘の時代で進歩的文化人の株価は猛烈に下がり、丸山眞男(進歩的文化人)の時代から吉本隆明(進歩的文化人批判の左派知識人)の時代になっていたが、それでも保守反動知識人は論外だった。

 当時、福田恆存が面白いなどと仲間の学生に語りかける雰囲気ではないことはわかっていた。だから友人たちにしゃべることはなかった。ところが…あるとき数人の仲間が友人の下宿に集まって談話することがあった。吉本隆明のなんとかがどうしたこうしたというような当時のありふれた会話がつづいた。わたしは、「吉本もいいけど、福田恆存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、二人は似ているんだな」といった。

 恥ずかしいことだが、そのとき二人の女子学生がいたので、彼女たちにいいところをみせたいという邪心が働いたのであろう。しかし、「似ているんだな」といいだしたあたりから、呆れた物言いだということがありありとわかる表情を全員から投げ返された。そのあとをつづける勇気はなく、「うんまあ…いいけど」で終わってしまった。「いいなら、いうなよ」と追い討ちまでかけられた。いいところをみせるどころか、すっかり面目を失ってしまった。

 このことがあってから、その場に居合わせた吉本隆明の女子学生は、わたしを誰かに紹介するときはかならず「この人ウヨクよ」と添えたものである。福田恆存をよいというだけで「ウヨク」扱いを受けた時代なのである。このときのウヨクは「右翼」ではなく「バカ」に近い意味だった。

 大学や文化産業においてでは、左派は、中国における共産党のようなもの、つまり体制だった。にもかかわらず、自分たちは反体制だとのみ思っているところや、自分たちこそ正義や知性やヒューマン価値の担い手の「意識高い」系であるとする臆面のなさがなんとも鼻についた。進歩的文化人やそのシンパの進歩的大衆インテリがいやだったのは、かれらのイデオロギーもさることながら、鈍感な自己意識から繰り出される啓蒙という名の特権的で抑圧・排除型の支配だった。

 しかし、進歩的文化人の覇権は、全共闘によって打ち砕かれる。進歩的文化人の鬼子による親殺しがおこなわれたのである。糾弾の論理は、東大全共闘会議議長山本義隆によってかかれた論文(「東京大学 その無責任の底に流れるもの」『現代の眼』1969年6月号)に要約されている。山本義隆は、この論文で、教授会の無責任構造を非難し、丸山の『日本の思想』をとりあげ、引用しながら、丸山が剔抉した日本社会の病理は大河内一男総長体制下の東大評議会・教授会そのものである、何故丸山は東京大学の体制そのものを批判しないのか、と激しく非難した。進歩的教授は、日本社会論のような総論では忌憚のない見立てを展開するが、各論それも大学や知識人集団の仲間集団のこととなると、口をつぐむか打って変わって仲間擁護の甘い見立てになる、と講壇安全左翼の不徹底性が糾弾されたのである。山本義隆は、日大全共闘との対談では、進歩的教授についてつぎのように批判をしている。

 一体進歩的文化人といわれる教授たちは何をやってきたか。彼らはいまやきわめて反動的な役割を果たしているか、困ってしまって無言を重ねているか、そのいずれかではないか。進歩的文化人といわれ、平和と民主主義を説いて、高度成長の経済社会では欺瞞的に教授という位置を与えられ、その範囲内で毒にも薬にもならぬ平和・民主主義論を説くことを許容されていた、それ以外の何ものでもなかったことを示している(「権威と腐敗に抗して」『中央公論』1969年1月号)。

 当時の大学自治で守られた大学という安全地帯のなかでのかれらの反体制的言説をウソくさいと全共闘が糾弾したのである。いざとなったら、職場を守り、文部官僚や政府権力と結託し、全共闘学生を機動隊に渡す大学教育官僚にすぎない、と。こうして進歩的教授や進歩的文化人という呼称から発した光輪が消え、呼称そのものが消滅した。進歩的文化人・岩波文化・朝日新聞の鉄の三角形の一角が瓦解した。権威の借用・貸与によって存立した鉄の三角形が形骸化しはじめた。

大衆化した後裔たちの茶番劇


 ところが、小型化し軽量化された大衆的進歩的文化人がキャスターやコメンテーターの姿であらわれた。それは、「堅気(保守)的大衆」よりも、権利と自己主張に急な「(疑似)進歩的大衆」がせり出したことと相関している。どっこい進歩的文化人は生きているという思いをもった。だとすれば、全共闘的なるものがあらわれるはず、と思わぬでもなかった。

 案の定、といっても思いもかけない形でそれはあらわれた。今年3月27日のテレ朝「報道ステーション」の冒頭のあの事件である。新聞や雑誌でも報道されたから、よく知られているが、かいつまんでふれておこう。古舘キャスターがコメンテーターの古賀茂明氏に中東情勢についてのコメントを求めると、古賀氏はこう言い始めた。「テレビ朝日の早河会長と古舘プロジェクトの佐藤会長のご意向で今日が最後ということなんです」。つづいて古賀氏は、菅官房長官の名前も出して、官邸から「ものすごいバッシングを受けました」と言った。古舘氏が慌てて、今の話は「私としては承服できません」と言うと、それを受けて、古賀氏は爆弾発言をした。テレビ局幹部と官邸の意向による「更迭」について、古舘さんは「自分は何もできなかった。本当に申し訳ないと言いましたね」。古舘さんとの「やりとり」は録音しているから「全部出させてもらう」、とまで言い放った。

 古賀氏の自爆テロとも言われたが、私は、これはどこかで見た光景の再現に見えた。機動隊が全共闘学生をけちらかすことに進歩的教授は手を貸したと糾弾する全共闘学生に古賀氏が、そのように糾弾される進歩的教授に古舘氏が、二重写しで見えてきたのである。酷な言い方にはなるが、いざとなると、大学の秩序ならぬテレ朝と古舘プロ、そして自己の延命にまわるあたりも、その昔の進歩的教授と相似である。

 歴史上の事件については、一度目は悲劇で、二度目は茶番としてあらわれるといわれるが、たしかに古賀事件は茶番劇だった。そうなったのも、二度目の軽量進歩的文化人の存在そのものが茶番であるからだ。いまや、ヤンチャ系であるはずの芸能人もスポーツ選手もテレビカメラが向けられると、かつての進歩的文化人のような物言いをするが、そうした化身事が猿芝居であるからだ。

たけうち・よう 昭和17(1942)年、新潟県生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究科教授、関西大学人間健康学部長を経て現職。『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)で2012年度読売・吉野作造賞。著書に『教養主義の没落』(中公新書)、『知識人とファシズム』(共訳、柏書房)など多数。近著は『大衆の幻像』(中央公論新社)。