初の政権参加もあっけなく野党転落


 公明党は、「55年体制」の崩壊といわれた1993年の政界地殻変動以降、再び大きく揺れ動く。自民党長期政権の崩壊直後にできた“非自民・非共産”の細川護熙内閣に初めて政権参加し、郵政、労働両省、総務、環境両庁の4つの大臣ポストを占めた。だが、細川内閣の後継である羽田孜内閣が64日間で崩壊すると、次の村山富市内閣は自民、社会、さきがけ3党の連立内閣となり、公明党は再び野党に転落した。

 政界再編のあらしが吹き荒れる中、94年12月には公明党を解散し、「公明新党」と「公明」に分党。その直後に「公明新党」は小沢一郎(現「生活の党」代表)氏が率いる新進党に合流するという慌ただしい動きを見せた。

 95年の第17回参院選挙では新進党として選挙に臨み、自民党の単独過半数の阻止に貢献する。特に、新進党は比例区で第1党となる大躍進を遂げたが、その裏に創価学会の大きな選挙支援活動があった。

 その結果、自民党内に、公明党に対する極めで強い警戒感が生まれた。地下鉄サリン事件(95年3月)などの影響もあって、自民党は政教分離基本法の制定や、池田会長の国会証人喚問要求を突きつけた。自公両党の関係が、最も険悪になった時代といえる。
“自公連立”を後押しした94年選挙制度改革

 しかし、「自公和解」は意外に早く訪れる。新進党が小沢代表の党運営をめぐる混乱などから97年12月に分党したためだ。98年11月には分裂していた「公明」と「新党平和」などが合流し、「公明党」を再結成。

 99年10月には自民党と小沢氏が率いる「自由党」との連立に加わる。小渕第2次改造内閣の時で、「自自公連立内閣」といわれた。保守路線への回帰であり、これ以降、政権与党、野党両時代を含めて「自公協力」は15年となる。

 自自公3党の合意文書を交換する前列左から小沢一郎自由党党首、小渕恵三首相、神崎武法公明党代表。後列は左から藤井裕久自由党幹事長、森喜朗自民党幹事長、浜四津敏子公明党代表代行、冬柴鉄三公明党幹事長=1999年10月4日、東京・首相官邸(時事)

 そして「自公連立内閣」が実現したのは、第2次小泉内閣時代の2003年11月。それまで与党を形成していた保守新党が解散したのに伴い、名実ともに「自公連立」政権となった。

 こうした連立・連携の動きは、細川内閣時代の1994年に実現した小選挙区比例代表並立制導入が大きく影響している。2大政党制を目指す選挙制度改革は、創価学会という強力な組織票を持つ公明党にとって、全国区で多くの当選者を出したとしても、選挙区では自民党などの有力政党と連携しない限り、一定の勢力を維持できないからだ。

 自民党と連携した背景には、70年代の日中国交回復に関連して、自民党旧田中派との連携があったことや、地方では共産党などの革新勢力と票の奪い合いをするケースが多く、逆に自民党とは地方と都市とで地盤を分け合うことが容易だったことなどが挙げられる。

「妥協の連続」だった自公協力15年


 15年を迎えた「自公協力」だが、その過程は妥協の連続の歴史ともいえる。第2次安倍内閣での集団的自衛権行使容認をめぐる協議は、すきま風が吹きながらも“条件付き容認”で決着した。公明党に「政権離脱という選択肢はほとんどなかった」というのが実情だからだ。

公明党の党大会で続投が正式に決まった山口代表(左)と握手する安倍首相=2014年9月21日午後、東京都港区
 2006年12月に成立した改正教育基本法でも、「愛国心」をめぐり自公対立はあったが、最終的には自民党が折れ、公明党の主張した文言を盛り込み妥協が成立している。

 一方、自民党にとっても公明・創価学会の支援がないと小選挙区では当選が難しいという事態に直面。「公明党は生命維持装置」とまで言われる状況になっている。

 こうした、相互補完関係の結果、2009年に民主党が総選挙で大勝し、政権交代が実現した際も、自公協力は崩れなかった。背景には、民主党が大勝しすぎたため、公明党の協力をほとんど必要としなかったことがある。また、民主党内には公明党・創価学会に対する「政教分離」問題へのアレルギーが、自民党より根強いということもあった。

 結党50年の公明党に、今後期待されるのは何か。政権与党として国民本位の政策形成、合意に向けた貢献ができるかにあるといえる。党代表に4選された山口那津男代表は2014年9月の第10回全国大会で、「国民のための政策実現に不退転の決意で邁進する」とあいさつ。井上義久幹事長は「公明党の保守・中道路線の真価は、政治の左右への揺れや偏りを正す」ことだと強調した。

出版言論妨害事件で政教分離


 最後に、公明党の歴史を振り返る時、「出版言論妨害事件」(1969年~70年代初め)を避けて通ることはできない。69年11月に刊行された藤原弘達明治大学教授(政治評論家)の『創価学会を斬る』に対し、創価学会が猛烈に反発、出版される前から出版社、流通、書店などに露骨な圧力をかけ妨害した。

 公明党大躍進の時期であり、その影響は極めて大きく、創価学会・公明党の密接な関係が政教分離原則の観点から激しい社会的批判にさらされた。池田大作会長(当時)は70年に「言論妨害の意図はなかった」としながらも公式に謝罪した。その上で、池田会長は政界に進出しないことを明言するともに、公明党議員は創価学会の役職からすべて離れた。多くの同党議員が創価学会の幹部出身者で占められていたからだ。

 あれからすでに45年。高齢と健康問題で公式の場にほとんど姿を見せなくなった池田名誉会長だが、公明党の支持母体が創価学会であることに変わりはない。しかも連立政権の与党として、大きな責任を担う。カリスマ的な創価学会の指導者である池田名誉会長の後継問題が、公明党の今後に影響を及ぼすのは不可避だといえる。