「実験科学派」と「症例重視派」のすれ違い

 このように科学の限界がある中で、何かを断言しなくてはならない、と焦る「専門家」の間では、かみ合わない議論続けられている。中でもかみ合わないのが、再現性と普遍性を重視する「実験科学派」と、1例でも先例があれば事実とする、「症例重視派」(いずれも筆者の勝手な命名である)が互いを論破しようと争う議論だ。

 「実験科学派」は、再現性と客観性を重視する人々だ。この人々は、「普遍的真理は条件が代わってもまた真」である、という前提に基づき、再現性と普遍性を重視する。統計学的有意差が好きなのもこのグループに多い。しかし実験科学は、統計学を用いて未来に対する予測を行う学問にすぎず、今現在の事実を端的に説明するものではない。人間社会においては全く同じ条件で再現性を確かめられることは少ない上に、そこには意味がないこともあるため、実験科学のみでは現実社会に対応することには限界がある。
 
 一方、「症例重視派」は1つでも事例があることに重きを置き、因果関係の証明はあまり重視しないない人々である。例えば福島のがんであれば、がんで苦しむ人がいるかどうかを問題とし、それが日本人の2人に1人がかかる一般的ながんであっても、放射能の影響によるがんであっても「福島のがん」である以上俎上に挙げる、という立場をとる。例えば差別の問題などでは、例があるかどうかが問題であるので、1例の症例は確率よりも重視される。しかし、当たり前だが症例をいくつ見つけても「増えていること」の証明にはならない、という限界がある。
 
 つまり「実験科学派」ががんのリスク因子、発がん率、放射線の(一般的な)身体影響を挙げて「今の福島の放射線量ではがんのリスクが上がることは考えづらい」

という言い方をする一方で、「症例重視派」は甲状腺がんの数例を提示して

 「実際に甲状腺がん患者がいるのになぜそこから目をつぶるのだ」

と反論する。まったくもって水掛け論である。

症例重視派の「領海侵犯」

 この二派がお互いを説得する必要はない。むしろ異なる視点から福島を眺める、というメリットがある。
 
 原発事故が実際にどの程度の健康影響を及ぼしているのか、住民という集団へのインパクトを探り、エビデンスに基づいた対処を政府に求めていくのが「実験科学派」の役割である。一方、人権擁護的な立場から、実際に福島で実際に困っている人がいるのだから因果関係やエビデンスなど待たずにそこに救いの手を差し伸べるべきである、と訴えるのが「症例重視派」のスタンスだ。つまり実験科学派がエビデンスを蓄積するまでの間、人道的な観点から速やかな対処を求める、そのように、2つの「派閥」は時間的にも理論的にも住み分けられるはずである。
 
 しかし今の福島で一番問題を引き起こしているのが、一部の「症例重視派」による「領海侵犯」である。本来個人の体験を重視し人権擁護の視点を持つ人々が、本分を外れてエビデンスを追い求め、自分の求めるようなエビデンスが出なければ科学者を誹謗する、という本末転倒な事態が、ここ福島ではしばしば起きている。
 
 つまり、付け焼刃の知識をもって

 「チェルノブイリではXXXなのに、福島では違うというのはおかしい」

 「福島で甲状腺がんが100例以上出ているのに、増えていないとはどういうことだ」

 と聴衆を煽り、科学者が相手にしなければ

 「証拠隠ぺい」「御用学者」

と非難する。

 先述のように、今現在は科学的知見に基づけば、がんの増加は実際に証明できていない。しかしそれに対し、何で証拠が出ないのだ、と詰め寄るに至っては、一歩間違えれば捏造教唆である。政府に対して声が届かないもどかしさは分かるが、それは科学を歪める理由にはならないはずである。