フィギュアスケート NHK杯最終日のエキシビションで熱演する
羽生結弦=11月29日、長野市のビッグハット(撮影・桐山弘太)
フィギュアスケート NHK杯最終日のエキシビションで熱演
する 羽生結弦=11月29日、長野市のビッグハット
(撮影・桐山弘太)
 2002年以前の日本選手の多くは「芸術性」という魔物、そして曖昧なジャッジに翻弄されてきた。主観に多くが委ねられていた採点基準が、ソルトレイクシティ五輪で起こった不祥事を経て、詳細な審査基準が定められ、主観が入り込む余地がないくらい具体的に改革された。これは確かに羽生結弦の追い風になっているだろう。受験勉強で着実に問題を解いて加点していくように、高難度の技を着実に積み重ねたら間違いなく高得点が出る。曖昧なジャッジの主観を案じる必要がない。それが羽生の確信を支える一因になっている。

 だが、こうしたスポーツ的な「努力の成果」では理解しきれない、もっと別次元のエネルギーが羽生結弦に秘められているように感じられてならない。なぜなら、「努力」なら世界のライバルたちがみなしている。懸命の練習を誰もが積み重ねているだろう。ところが、羽生結弦にはできて、彼らにはできないことがある。

  先ほど紹介した3年前のインタビューの中に、もうひとつ印象的な言葉がある。
 「火山で言えば、マグマが溜まるコアの部分を作っている。コアがしっかりあるから吹き出せる。今までは上辺だけで演技してた感じ。今年はそれを痛感しました」
   3年前にして、すでにアートもスポーツも超越し、自分を躍動させる核心をつかんでいる。東日本大震災の影響もあるだろうか。羽生がなぜこれほど強いのか、「血の滲むような練習をしてきた」とさりげなく言える一途さを備えているのか。自分の栄光や名声のために戦っているだけではない、もっと大きな使命を担って羽ばたいているように感じる。

 かつて長野五輪の頃にメダルを獲得した選手たちは“新人類”と呼ばれ、「国のためじゃない、自分のために頑張る」と言って、新しい時代の扉を開いた。それは確かに日本の常識にひとつの風穴を開けた。そしていま羽生結弦は、「自分のためでも国のためでもない。フィギュアで表現すること、感動を発信することが自分の使命」「世界のため、平和のため」、自分の役割を無意識のうちに真っ直ぐ受け入れているように見える。だからこそ、勝利の女神も羽生結弦に微笑みを送り続けているように。

 羽生結弦が氷上で躍動し、挑戦する姿には自分のためとか、勝敗に対する一喜一憂は感じられない。もっと大きな使命のために自分の努力や戦いがある、それを本能的にわかってチャレンジしている若者のこれからがさらに楽しみだ。羽生はかつてプロ野球の長嶋茂雄がその躍動と笑顔で日本中に野球を超える一体感をもたらしたように、いまの混迷する日本に心の絆をもたらす役割を果たしてくれる期待さえ感じる。