普通の子育てが公言できない

 第2に、もし同性婚カップルが子どもの両親とはならないとしても、同性同士が結婚出来ること自体が、異性同士では当然と考えられてきた一夫一婦制や貞操義務の規範を揺るがすのではないかと指摘されている。同性愛カップルが前述のように「一時的な関係であって一生涯生活を共にすることを前提とはしていない」「親密な相手がいても性交渉は別で複数の違った相手とも性交渉する」という傾向が強いとすれば、たとえ、結婚出来るようになったからといって、行動パターンがすぐに変わるはずもない。むしろ婚姻の本質は自らの幸福の為になされる私的で親密で情緒的な関係と捉えている以上、婚姻概念の方を自らの行動パターンに合わせる可能性が高い。婚姻制度から一夫一婦制や貞操義務を排除しようと運動することも十分考えられる。そうなれば、子どもがいる多くの異性カップルにも影響を及ぼすことは必至である。

 第3に、婚姻制度に同性カップルを含むとなれば、もともと血縁の両親に育てられるように意図された社会と子どものための婚姻制度の意義が、法理論のうえだけではなく実際の社会感覚として、揺らいでしまう恐れがある。その結果、家族は社会制度として、子どもや社会に資する制度であるという感覚すらなくなって、婚姻制度は当事者の選択によりいつでも解消出来る不安定な制度になりかねない。そうなれば、今以上に離婚率が高くなり、そのしわ寄せを受けるのは子ども達である。

 第4として、前述した生命倫理にも関わることだが、親子関係の複雑化や、親が生まれてくる子どもを取捨選択するという傾向が強まる恐れがある。

 結婚を認められた同性カップルが異性カップル同様に子どもをもうけることは自然の摂理には反するが、昨今の医学の進歩により、その希望をかなえることは可能になった。

 例えば、女性同士のカップルでも精子を精子バンクから買い取り、どちらかの卵子と受精させて、子どもを産むことも可能となってしまったが、このことは生まれた子どもにとって、カップルのどちらかは血の繋がった母親だが、他方は全くの他人で、この世のどこかに血の繋がった父親が存在するという現実を生じさせる。さらには精子を買い取る時に、目や髪の色を選んだり、学歴の高い男性の精子を希望したりすることさえ出来るようになるのである。

 第5に、同性婚を法的に認めることによって、男女間における結婚や血縁の家族の良さを強調することが出来なくなる。

 法には一律性と強制力があるが故に、同性においても結婚を認めるということは、同性カップルも異性カップルと法的にも事実上も同等に取り扱うべきことを強制されるということを意味する。そうなれば、「父親と母親の揃った子育てこそ子どもの発育に最善である」という自明の事実さえ公言することも難しくなる。同性婚合法化の背後には、異性カップルのみならず同性カップルも親としての能力は変わらないという趣旨が暗に含まれてしまっている。それは、本来の子育ての理想である「血の繋がった両親による子育ての重要性」を覆い隠してしまう。逆に、学校や家庭においても子ども達に対して、同性同士も異性同士と同じであって、結婚できることを教えなければならなくなる。「同性婚も異性婚も平等」となれば、少子化もさらに進むであろう。

 第6には、宗教活動の自由との関係でも問題となりうる。例えば、アメリカでは、本来、同性婚を認めていないキリスト教の関連団体が大学、病院、養子縁組の斡旋、社会奉仕活動等、様々な活動を行っているが、教義に反して、同性婚カップルに養子縁組の斡旋を行わなければ、裁判に訴えられて損害賠償を請求されるかもしれない、政府からの補助金も打ち切られるかもしれないという事態に追い込まれている。このように、国が正式に同性婚を認めることで、宗教活動を現実に阻害するという指摘も存在している。