三岡が初めて中国を訪れたとき、中国で南京事件は語られてなかった。鄧小平と会談したとき、鄧小平はこう述べた。「日本の軍国主義は中国を侵略した。そのため蒋介石は後退し、それにより八路軍は勢力を広げることができ、最後は蒋介石を打ち破ることができた」

 鄧小平は日本軍を非難するとともに日本軍に感謝もしていたが、南京事件を語ることはなかった。三岡は黙って聞いていた。四年後、中国は教科書に南京事件を記述し、さらに四年後、南京市に虐殺記念館を建てる。記念館が建立された翌年、さっそく三岡も案内される。

 三岡は士官学校卒業とともに兵隊の教育に従事したが、その兵隊と南京戦に従軍した兵隊は同じ年齢である。日本兵の素質を知っていた三岡は、かりに南京で不祥事があっても、事件として指摘されるようなことは起きえない、ととらえていた。

 三岡は鄧小平との会談で臆せず意見を述べたが、礼を失することのないよう努めた。ほかの高官との会談でもそう務めてきたが、こうなっては中国に問いたださないわけにいかない。六十一年九月、党政治局員兼書記の余秋里と会談したとき、南京事件を持ちだした。

 余秋里は、毛沢東の腹心として知られており、文化大革命のころは石油鉱業相を務めていた。会談の四年前に当たる五十七年の第十二回党大会で政治局員に選ばれ、その翌年に国家中央軍事委員会副主席となり、会談が持たれたときは軍のなかできわめて重要な地位にいた。

 三岡は余秋里にこう尋ねた。

「二十万人しかいない南京で三十万虐殺があったと中国は主張しているが、話が合わないではないか」

 それに対して余秋里はまともに答えず、「揚子江寄りの下関で二万人を殺したと日本から言ってきている」とはぐらかした。そこで三岡は戦場というものに言及し、「二万人の死体がどれくらいか、軍人なら君もわかるだろう」とたたみかけた。すると、余秋里はそこで話を切りあげてしまう。逃げるだけであった。

 三岡は納得できなかったが、相手の立場も考えなければならない。切りあげざるをえなかった。といって三岡の追及が終わったわけでない。平成三年九月、中央軍事委員会副主席の劉華清と会談するとき、再び声を上げた。

 劉華清は、海軍司令を務めた後、昭和六十三年四月、中央軍事委員会副主席に就任、余秋里と同じように軍のなかで強い影響力を持っていた軍人である。三岡が劉華清と会談した翌年、鄧小平から江沢民への権力継承が行われ、そのときの第十四回党大会で劉華清は軍事委員会で二番目、政治局常務委員会で六番目の地位に上る。中央軍事委員会と政治局常務委員会双方を兼任しているのは江沢民と劉華清だけである。

 その劉華清に三岡はこう質問した。

「南京虐殺記念館を案内されたが、なぜ事実でもない虐殺の記念館を建てるのか」

 対して劉華清はこう答えた。

「中国が解放される前の時代を若い人へ知らせるために行なっている。虐殺記念館は中国のなかでのことだ」

 やはりまともには答えていない。

 そのころ中国は改革開放の時代に入り、国民党と戦っていたころを知る若者はいなくなっていると言われていた。劉華清たちの言わんとしていることはわかるが、日本としてはそれで引きさがるわけにいかない。三岡はさらに三十万という数字を出して質問した。すると劉華清は黙ってしまい、答えなかった。答えられなかったと言うべきだろう。

 余秋里は日本軍を批判していたわけでない。そして劉華清の答えである。このとき三岡には鄧小平との会談がよぎった。鄧小平から始まって彼らは答えたくないときは話を切りあげてしまう。それらを思い返した三岡は、南京事件は中国内の政治的発言であり、それらを問題にする日本が間違っていると自分を納得させ、以後、問いただすことをやめた。

 中国の言うままにしてはおけないと考えた人は三岡の後にもいた。丹羽春喜京都産業大学教授たち中国を訪れた一行もそうだし、国会議員のなかにもいる。陸軍士官学校を卒業し、戦後は衆議院議員となり、建設大臣を務めた亀岡高夫は、中国の軍高官に、南京事件は作りごとであり、まして三十万人などとは、と抗議した。戦場と日本軍をよく知っている亀岡には黙せないことであった。

 すると軍高官から、日本社会党の田辺誠委員長から言ってきている、と反論された。やはり衆議院議員の稲葉大和も三十万人という数字について中国軍の高官に抗議した。稲葉大和が自民党の代議士となるのは平成五年で、それ以降のことであるが、すると、虐殺記念館の建設は日本から言いだしたことだ、と言われて二の句が継げなかった。

 同じような中国側の言い訳は三岡徤次郎も経験している。盧溝橋にある反日記念館に行きあまりの残虐さに驚いた。田辺誠から言ってきている、と反論され、黙るしかなかった。

 共通点は、中国の高官が南京事件を事実だと捉えていない、三十万という数字にまともな反論をしていないことである。また、展示を追及されると、日本の記者から言ってきている、日本の政治家からの要請だと答えて逃げるということだ。中国高官は事件を事実と見なしていないのだ。

鄧小平も南京事件をよく知らない

 それでは南京虐殺記念館が建てられたとき館名を書いた鄧小平が南京事件をよく知っていたかといえば、これもそうではない。

 昭和十二年七月に支那事変が始まり、八月、中国共産党の軍事組織である紅軍は国民革命軍第八路軍に編成される。このとき鄧小平は八路軍の総政治部副主任に任命される。九月、鄧小平は山西省に向かい、山西省に作られた民族革命戦争戦地総動員委員会の八路軍の代表に就く。十月、日本軍は山西省に攻め入り、省都太原を陥落させる。日本軍と戦った閻錫山の支配組織は急激に崩壊していき、代わりに共産党が勢力を広げる。南京が陥落するころ、鄧小平は日本軍と正面から対峙せずに山西省の西部、南部と移動していた。

 年が明けた一月十八日、鄧小平は第百二十九師団の政治委員に任命される。第百二十九師団司令部は山西省東部の太行山の麓にあり、鄧小平は一帯で師団長の劉白承とともに日本軍との戦いの準備を進める。

 このように鄧小平は支那事変が始まると前線で共産党軍を指揮し、それに追われていた。その地位からさまざまな情報が入り、南京陥落も知ったであろうが、奔走していたのは山西省であり、そのころ漢口の新聞に載った南京事件も知らなかっただろう。

 戦後、鄧小平は文化大革命で失脚、昭和四十八年、副総理として復帰、昭和五十二年に復権が決議された。三岡徤次郎が鄧小平と会ったのはこういうときである。

 鄧小平の復帰と並行するように、昭和五十年、蒋介石が死亡、昭和五十二年一月、周恩来が亡くなり、九月、毛沢東が亡くなる。南京事件について知る人たちが亡くなって数年、初めて南京事件が中華人民共和国で語られるようになる。日本軍が南京を攻めてから四十四年も経っていた。

 鄧小平の側近といわれた劉華清ですら三岡の質問に答えられなかったことは鄧小平が知らなかったことを如実に表しているが、ともあれ鄧小平が揮毫したとなると、公に事件を否定することはできなくなる。たとえ劉華清でも公然と否定することはできない。