しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。 上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。

 「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。

 私は高校卒業後、18歳の時にオウム真理教に出家しました。両親との関係はとても悪く、実家には絶対に戻りたくないと思っていました。一方、指名手配されて1カ月ぐらい後のことだったと思いますが、教団の「出頭するように」という呼びかけに応じなかった為、上祐史浩さんに除名処分にされてしまいました。私には帰る場所が無くなってしまったのです。これは、私がその後17年逃げ続けてしまった一つの要因にもなりました。
警視庁で公開された
菊地直子被告の逮捕直後の写真
警視庁で公開された菊地直子被告
の逮捕直後の写真 
 紆余曲折の17年の末、私はとうとう逮捕されてしまいました。警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられると思っていた私は、取調官の応対が思いの外、紳士的に感じられました。

 「なんだ。こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」

 私の供述の都合のよい部分だけがマスコミに流されていることを知らなかった私は、不覚にもそう思ってしまいました。

 しかし、その思いは突然裏切られることになりました。

「地下鉄サリン事件について、まだ何も話していないじゃないか! まだ話していない事があるだろう!」

 それまで穏やかだった取調官の態度が豹変し、私は怒声を浴びせられたのです。私を睨みつけるその目はまるで氷のようでした。

 その瞬間、私の頭の中でいろんな思いが交錯しました。「地下鉄サリン事件についてと言われても、心当たりのありそうなものについてはもう話したのに。他に何を話せと言うのだろう?」「初日に『知らなかった』と話した時は信じてくれているように見えたのに」「『知らなかった』のだから、何が地下鉄サリン事件と関係があるかなんてわからないのに」「やっぱり信じてもらえないんだ」「17年間、『どうせわかってもらえない』と思っていたのは正しかった」「少しでも『わかってもらえるかも』と期待した私が馬鹿だった」……。

 私は取調官に心を開きかけていたことを後悔しました。そしてこう言ったのです。
 「『何も話していない』と言うのなら、もう本当に何も話しません」
 そして二度と言葉を発することはありませんでした。

 結局、私は地下鉄サリン事件では処分保留となり、起訴される事はありませんでした。続いて逮捕されたVX殺人事件でも処分保留になりました(この事件については、自分に逮捕状が出ていることすら知りませんでした)。そして、最後に逮捕された都庁小包爆弾事件で起訴されたのです。
 
 起訴されて、湾岸署の留置所から東京拘置所に移った後、私は弁護人の先生が言っていた事が正しかったと知ることになりました。関係者の膨大な供述調書と裁判調書が差し入れられたからです。どのぐらい膨大な量かというと、ファイルにとじて30センチぐらいに平積みしたものが7山です。しかも、これは表と裏にそれぞれ調書4ページ分を縮小コピーしているので、実際には8倍の量です。つまり全部積み上げると、16・8mもの分量ということになります。このうち私の事に触れられているのはほんの一部なのですが、関係者の全ての調書を検察に開示請求したところ、このような量になってしまったのです。これらの調書から、私がサリン生成に関わっていないのは明らかでした。