また、厚生省(当時の教団の部署名)のメンバーのうち3人(私を含めると4人)が、地下鉄サリン事件で逮捕された後に釈放されていたこともわかりました。恐らく警察は事件の早期解決を図って、証拠が揃っていない人物にまで逮捕状を出したのでしょう。この3人はすぐに逮捕された為、私のように指名手配になることもなく、釈放されたことも大きく報道されていなかったので(もしくは全く報道されなかったのかもしれません)、私はその事に全く気付かなかったのです。もし気付けていれば、自分がサリン生成に関わっていなかったことにも気付けたかもしれません。

 しかし、全ては後の祭りでした。「どうすることもできない」と私はあきらめてしまっていました。>

 逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。

 この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。

 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。

 控訴審の準備を進めていた昨年の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。

 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。
「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」

 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。