私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。

 いち早く回答が返ってきたのは『週刊新潮』でした。その回答書の内容は抗議した記事の内容以上にひどいものでした。私はサリン生成に関わったと断定する記事を載せられたことと、最高で無期懲役もあり得るなどという量刑予想を載せられたことについて主に抗議をしたのですが、『週刊新潮』は、「サリン製造に関わった」と表現することには何ら問題がないと主張し、その根拠として、「(私が)土谷正実実さん率いる第二厚生省に移った事」と「第二厚生省の拠点である『クシティガルバ棟』でサリンが製造された事」を挙げてきました。そして、サリンがクシティガルバ棟で製造された事は、過去のいくつかのオウム裁判で事実として認定されていると主張してきたのです。

 しかし、私の手元にある関係者の裁判記録では、クシティガルバ棟でサリンが生成されたのは、「93年(平成5年)12月~94年(平成6年)2月」です。これより後にクシティガルバ棟でサリンが生成されたという記録は一切ありません(95年3月に教団内でサリンが生成されたことがあったようですが、クシティガルバ棟とは別の施設でのことです)。一方、『週刊新潮』は記事の中で、「94年半ば、オウムが省庁制を定めた頃、『達成部』(私が所属していた部署名)は自然消滅。菊地は土谷正実率いる第二厚生省に移り、サリンの製造に関わるようになる」と、私が第二厚生省に移ったのは「94年半ば」だと明記しているのです。さらに回答書の中で「クシティガルバ棟は部外信者の立ち入りが禁じられた上」と書いています。サリンが作られた時期である「93年12月~94年2月」に「達成部」に所属していた私が、いったいどのようにして、部外信者の立ち入りが禁じられていた「クシティガルバ棟」で、サリン生成に関与することができたのでしょうか?

 『週刊新潮』は、私が第二厚生省に移った時期については調べることができたのに、「クシティガルバ棟」でサリンが作られた時期については調べることができなかったのでしょうか? 私の手元の裁判記録では、「クシティガルバ棟」でサリンが生成されたことと、その「時期」については、セットで記録されています。『週刊新潮』がその「時期」について、裁判記録を調べはしたけれども見落としてしまったのか、それとも見たけれども見なかったことにしているのか、もしくはそもそも裁判記録など調べていなかったのかはわかりません。そのいずれであったとしても、きちんと裏付けを取らずに「(私が)サリン製造に関わった」ことを記事にしたのは明らかです。

 さらに『週刊新潮』は、「小誌は貴殿が、サリン製造の認識を持って、この作業に従事していたものと確信しております」と私を犯人であると確信していると述べた上、私がこのような抗議文を送り付けてくるのは「一連のオウム事件への反省がないことの証左」だとして、私を激しく非難してきたのです。