危うく殺されそうに


 津波古さんには、忘れられない恐怖の思い出がある。あれは、首里の司令部を放棄して南部の摩文仁に撤退命令が出た昭和二十年五月二十七日のことだった。

 もう真夜中だった。部屋にいたのは、津波古さんともう一人の“ひめゆり部隊”の看護婦だけだった。

 「そのとき、見たこともない人が三人部屋に入ってきたんです。その人たちがあっちこっち探してカンカンを見つけたんです。缶詰の缶です。最初は食事をするんじゃないかと見ていたら、どうも様子が違うんです。

 私は退屈だったものですから『手伝いましょうか』と言ったんです。するとびっくりした顔で振り向いて、『何しているか。まだそこにいるのか』と非常に恐ろしい顔で言うんです。それからしばらくして、『お前たちは人間じゃない』なんていう怒鳴り声が聞こえてきた。そこで友達の看護婦さんに『これ、ちょっと変よ。私たちも殺されるかもしれない』と言って、そこから逃げたんです。動けなくなった病人に青酸カリを入れて殺したということは、あとから聞いて知りました」

 津波古さんは逃げる途中、学徒隊の引率教師をしていた実の兄に会った。

「それでいま、目撃した出来事を話しました。兄は二人の軍医のところに行って何か話したあと、戻ってきて『いまの話は誰にも絶対言うな。もし秘密を漏らしたら軍法会議だよ』と言われました。それ以来、誰にもずっと話さないできました」

今日来た子が翌日には……


 津波古さんが真相を知ったのは、戦後も六十年経った頃だった。ある新聞記者の紹介で、いまは京都で暮らす岡さんという人と会ったのがきっかけだった。

 岡さんはそのとき、津波古さんにこんな話をした。

 普通のミルクと思って口にしたら何か変だったので、すぐ炊事場に行って蛇口から水を飲んで吐き出した。同じ炊事場で、北海道出身の兵隊が苦しそうにもがいていた。その人の首根っこをまえて水をたくさん飲ませ、口に手を入れて毒を吐き出させた。

 津波古さんはこの話を聞いて、やはり自分が目撃したのは見間違いではなかったことを確信した。

「それで、こんなところはたいへんだと思って、友達と二人で逃げ出した。でも、北海道出身の人は歩けない状態だったから、岡さんの後に這ってついて行った。すると奥の方から若い将校が出てきて二発、バンバンとやったらしいんです。岡さんには当たらなかったけど、後ろからついて行った北海道の人には当たってそのまま動かなくなった。岡さんは息を殺して、射殺した将校たちが現場から立ち去るのを確認してからその場を逃げてきたそうです」

 息をのむような話だった。

 だが、そのあとに続く話は、戦争の悲惨さを語ってさらに残酷だった。

 津波古さんが摩文仁海岸を逃げ回って捕虜になり、百名(現南城市)の病院勤務を経て、コザ(現沖縄市)孤児院で約百名の子どもたちの世話をすることになったのは、昭和二十年六月末のことだった。

 彼女は手記で、そのときの様子を次のように述べている。

〈到着したのは、焼け残った瓦葺の大きな家で、孤児たちが大勢収容されていました。私たちは、ここで乳幼児の世話をすることになりました。子どもたちは、栄養失調で精気もなく泣いていました。私たちにこの子たちの面倒が見られるのか、一緒に泣き出すのではないかと不安でした〉

 津波古さんがコザ孤児院に赴任したのは、僅か十七歳のときである。大勢の栄養失調の孤児たちを前にして、泣き出したくなる気持ちがよくわかる。

 南風原市の沖縄県公文書館に、コザ孤児院の子どもたちを目隠し鬼ごっこして無邪気に遊ばせる津波古さんの写真が所蔵されている。お下げ髪で手を叩く津波古さんは先生というより、ちょっと年上のお姉さんである。その幼い姿が戦争の痛ましさを無言で語って胸を衝く。