もう埋めるところがなくて


──コザ孤児院では、毎日のように子どもが亡くなったようですね。

「そうですね。小さい子、二、三歳の子は、今日来たかと思ったら翌日にはもう亡くなっていました。もう埋めるところがなくて、弾が落ちた跡の大きな穴に、そのまま埋葬もしないでなかに落としていました」

──死因は何が多かったんですか?

「栄養失調だったと思います」

──寝るときは子どもたちと一緒ですか?

「はい、ずっと一緒でした。子どもたちは夜になると泣いて。わあわあ泣くんだったらまだいいんですけど、しくしく泣くんです」

──それは辛いですね。

「だから、とにかくぐっすり寝かせることを考えて、昼間は鬼ごっこで駆け回らせたりして疲れさせるんですけど、やっぱり熟睡はしないですね」

──いくら昼間、疲れても?

「夕方になると、小さな子が『おっかあ、おっかあ』と言って泣くんです。あのときは、私も泣きたくなるくらいでした」

 津波古さんに特になついた子は、名前はわからなかったが、地名のコザから“コザヨシコ”と名付けられた。

沖縄戦は終わっていない


 二〇一〇年六月、コザ孤児院で“同窓会”が開催された。この模様は、NHKのドキュメンタリーでも放映された。

 この番組の白眉は、同窓会に参加した六十八歳の“コザヨシコ”さんが、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた少女の写真を見て「これは私かもしれない」と叫ぶ場面である。

──彼女とはNHKの番組で六十数年ぶりに再会したわけですが、津波古先生が大きくなった“コザヨシコ”さんを抱きかかえて、「これからは私をお母さんと思ってね」と言ってネックレスを渡すシーンは本当に感動しました。あれ以来、彼女から連絡はないのですか。

「ありません」

──それはなぜなんですか。

「いつでも訪ねてきてねって言って、手紙を出そうとしたんですが、住所も言えないんです。学校にも行けず、字もまったく読めないから……」

 衝撃的な話だった。沖縄戦で孤児になった少女は孫を持つ身になっても、自分の本当の名を知らないばかりか、読み書きもできない。

 戦争はそれほど不幸な人間を生み出す。

 戦後七十年、沖縄戦はいまだ終わっていない。