ところが赤軍派のこの戦術は、成功したのである。彼らは、日本や韓国の権力者の思惑や妨害をはねのけて、当初の目的通り(きわめて非合法な手段で)ピョンヤンに渡ったのだ。しかし、戦略はもろくも崩れ去ったと言っていい。他力的に崩れ去ったというより、よど号赤軍自らが、その戦略を捨てたのだ。いや、それは日本からの見方で、彼らは、当時の言語で言えば「世界同時革命路線を総括し、止揚した」のだ。ピョンヤンに渡って1年が経過した頃の話だ。

 『「拉致疑惑」と帰国』というタイトルのその本がある。いまもピョンヤンに残るよど号グループ6人(男性4人とその後彼らと結婚した女性2人)が書いた手記で、2013年4月に河出書房新社から出版された。その中で、現在のリーダー小西隆裕は、以下のように書く。

 「そうした一年を超える歳月、その間の生活を通して、私たちは、自らの理論、路線への確信が大きく揺らいでくるのを覚えていた。それは赤軍派の理論、路線が朝鮮の現実にも日本の現実にも合っていないところからくる揺らぎだったと言える。理論の正否を問うとき、現実にあっているか否かは決定的だ。それはいかなる強弁をも許さない」(同書p38)。

 「理論評価の基準を現実に求めると言ったとき、私たちにとって決定的だったのは、やはり日本国内の現実、私たち赤軍派壊滅の現実だった。そもそも、私たちのハイジャック作戦は、この作戦勝利によって鼓舞され強化されるに違いない国内の部隊と、朝鮮での軍事訓練で鍛えられて帰国する私たち遠征隊とのドッキングにより、秋の武装蜂起を成功させるためのものだった。その強化されるはずだった国内が、逆に、官憲の集中弾圧を受け壊滅状態に陥ってしまったというのだ」

 赤軍派路線を総括・止揚した後の彼らの行動・生活については、その後、あまり伝わってこなかった。そんなこともあり、その後の我が国の新左翼運動になにか直接影響を与えるようなことはなかった。ただ、かの地に彼らが生きているということが、私たちの気持ちに微温を与えたのは確かだと思う。もちろん、新左翼内部からは、「彼らは主体思想に逆オルグされた」とか「スターリニストの軍門に下った」などの容赦ない言葉が投げかけられたりもしたのも事実である。

 北朝鮮に渡った当時は、最年長の田宮高麿が27歳、最年少の柴田泰弘が16歳(ともに故人)だったが、長いピョンヤンでの生活の間に、全員が日本人女性と結婚し、子どもをもうけた。彼らは亡命者として北朝鮮に受け入れられたので、比較的自由な生活が保障され、亡命者パスポートで、日本との犯人引き渡し条約のない国へは渡航もし、その様子を日本の週刊誌(週刊プレイボーイ他)に寄稿したこともある。

 1990年代には商社を起こし、日本から中古車を輸入し中国へ転売するなどして、かなり儲けたらしい。「今はもう中国でも日本の中古車需要はないですから、いいときにやめましたよ」とは、私が訪朝した時に小西が語った言葉である。

 さて2000年代に入って、よど号グループの名前がしばらくぶりにマスメディアを賑わした。いわゆる「拉致疑惑」である。単に「拉致疑惑」と書くと、彼らが日本に潜入して、北朝鮮の工作員とともに日本人を連れ去ったかのような印象を持たれる方も多いかもしれない。そうではない。彼らに掛けられているのは、「ヨーロッパ拉致疑惑」である。

 ヨーロッパに留学していた有本恵子さん(当時22歳)を、言葉巧みにだまして北朝鮮に誘ったという疑いで、警視庁は2002年に「結婚目的誘拐罪」という聞きなれない罪で、よど号グループの一人の逮捕状を取った。その後、グループの女性二人にも、石岡亨さん、松木薫さんの二人の「拉致」にかかわったとして、2007年にやはり「結婚目的誘拐罪」の逮捕状が請求され、今日に至っても更新され続けている。