「容疑者M」宮崎学がすべて語ったグリコ・森永事件30年目の真実

『宮崎学』

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宮崎学(作家)

グリ森事件? あれは顔が似てただけですよ


 グリコ・森永事件(以下、グリ森事件)と僕の関係は一言で言ってしまえば、犯人と顔が似てたということだけなんです。だから、僕とあの事件とは一切関係がない。今も公開捜査をすれば、いろんな情報がバーッと飛んでくる。グリ森事件についても、数ある情報の中の一つに過ぎなかったんだろうと思うんですよね。警察側に立って考えれば、寄せられた情報はみんな洗わざるを得ない。そんな状況下で、僕がかつて学生運動をやってたわ、実家はヤクザで解体屋をやってるわ、金はそれなりに儲かってた時代があって、派手な生き方もしていたという、警察が抱く犯人像に近い人物のタレコミが飛び込んできたもんだから、彼らが色めき立つのも容易に想像がつく。でも実際に情報を洗ってみると、僕に前科前歴はないんだけども、どうもコレは学生運動をやってて左翼っぽいぞと。警察はその辺りも疑っていたのかもしれません。でも、僕の見立てでは、グリ森事件にはちょっと反社会的な複数の人間がかかわっている。脅迫電話には子供や女性の声が出てきたりするからね。1人や2人じゃなかったよね。

グリコ・森永事件 昭和59年3月18日に江崎グリコの社長が誘拐された事件に端を発する、一連の食品企業恐喝事件。「かい人21面相」を名乗る犯人グループは、その後、青酸化合物を混入した製品を店頭にばらまくとして、企業に現金などを要求。一方で報道機関に警察を揶揄する挑戦状を送りつけ、“劇場犯罪”という言葉を生んだ。犯人グループは60年8月に突然、終結宣言を出して動きを停止。平成12年2月に28件すべての事件で時効が成立し、警察庁指定事件で初めて未解決となった

 「劇場型犯罪」の走りといわれたグリ森事件とは結局何だったのか。そもそも「劇場型犯罪」という括り方自体が間違ってると思う。あれは犯人がカモフラージュのために「劇場型」にしたわけで、犯罪を劇場化に仕立てて楽しむ犯罪者なんているはずがない。カネという最大の目的があるから罪を犯すわけで、愉快犯的にやるのは極めてリスクが高い。だから僕は劇場型犯罪という見方そのものが間違いで、何らかの経済的な犯行理由がそこにはあって、つまりカネのためにやったんだと思っています。劇場型にしたのは、あくまで犯行をカモフラージュして捜査をかく乱させるためだったにすぎない。劇場型とか言って、いまだ語り継がれていること自体、まだあの犯人グループの手の中で踊らされている、そんな気がしてならない。当時も今もマスコミや世間が劇場型犯罪だと思っている時点で、一生「犯人」にたどり着くことはないでしょうね。犯人のかく乱に、まだ乗せられてしまっていると言えるんじゃないかな。
宮崎学氏
 警察は金の要求とか受け渡し方法とか、警察のやり方で捜査をするわけじゃないですか。その時に「なんだろうコイツ? 本気で考えとるんだろうか」っていう捜査の見立てが、まず最初の大きな壁として立ちふさがる。あの種の恐喝事件は、金の受け渡しの時に犯人が逮捕されるというパターンが多いですから。犯人側にすれば、金の受け渡しはどうするか、金は要求しただけ出るとも限らないから、まずは多めにふっかけておけばいいとか、いろんなことを考えて要求したんでしょう。あの時も「現金10億円と金塊100キロ」なんて途方もない要求でしたからね。犯人グループは警察捜査の裏を読むというか、そういうことがわかっていた連中で、ある意味「商売人」だったんだろうなと思います。少し知識のある人間だったら、警察無線の傍受なんか簡単にできることも知ってるでしょう。警察は自分たちがやっている科学捜査は、犯人には全く知られていないとか、そもそも捜査をかく乱できるような連中じゃないと思っていたんでしょう。事実、江崎社長を真っ裸にして放り出したりするような結構手荒いタタキ(強盗事件)でしたからね。でも、それは明らかに初動捜査の見込み違いだった。犯人はかなり知的水準の高い人物という見立てでやっていれば、また違った局面になってたんだろうと思いますね。別にグリ森事件に限った話ではないけど、初動捜査のミスがずーっと後まで響いたわけですね。


自宅にガサ、身を救った癖


 公安警察というのは刑事警察とはタイプが随分違って、「なんでも根こそぎ」っていう考え方が根底にあります。「キツネ目の男」を尾行しておきながら、京都行き国電(現JR)の中で逮捕できなかったのは、犯人の後をつけていけば、いずれこいつが巣穴まで帰ってグループを一網打尽にできると踏んだからでしょう。組織犯罪ならその実態を解明して上から下まで丸ごとパクってしまえ、というみたいにね。それ対して刑事警察というのは、たとえグループであっても事件を犯したヤツを単独でもいいからパクればいいという発想です。同じ警察でありながら手法がまったく違う。例えるなら、水田で米を作っているのと、畑で大根を作っているのとは違うように、警察の中でも当然やっている分野が異なる以上、それぞれの捜査手法は違って然るべきなんです。犯罪というのはもともと非常に肉体的なものなんですね。人を殺すとか傷つけるとか、カネを奪うとか、人のモノを盗むとか。そもそも肉体の苦痛を伴うものなんです。ただ、グリ森事件は肉体的ダメージを与えない犯罪だった。精神的なダメージはあったかもしれないけど。そういう意味で、グリ森事件は犯罪の在り方そのものを変えた事件だったといえるのではないでしょうか。

 グリ森事件では僕も容疑者扱いされました。青梅街道を挟んだところに警視庁中野警察署があったんですけど、当時はその向かい側に僕も住んでいました。実は事件後、警察が2回ほど自宅を訪ねて来ました。(京都の)実家の方にはすでに行ってたんでしょう。たぶん、中野に住んでいたころには尾行も付いていたんだと思います。そう、警察が自宅にやって来る半年ぐらい前から行動確認をしていたんだと思う。そして、しばらくして突然ガサ状(捜索令状)を持って自宅に踏み込んできたんです。ところが、ガサをしても事件に関わるモノは何にも出てこなかった。結局、警察も一度のガサであきらめたんでしょう。その後、本件でガサを受けることはありませんでした。

キツネ目の男 「キツネ目の男」は、昭和59年6月28日夜の丸大食品脅迫事件で、国鉄高槻駅-京都駅間の普通電車の中で大阪府警の捜査員に目撃された不審人物。終始、現金持参人の行動を監視しており、府警は21面相の一味と判断して60年1月10日に似顔絵を公開した。当時の推定年齢は35-45歳。身長175-178センチで、がっちりした体格。薄いまゆ毛と、つり上がった目が特徴。捜査本部に約4400件の情報が寄せられ、うち約600人について捜査員が直接確認に出向くなど、最重要捜査項目とされた。

 ただ、いま思い出しても一つだけ気になることがあります。国電車内で「キツネ目の男」が目撃され、警察が取り逃がしたときがあるでしょ? 実はガサの関係で警察が聞いてきたのは、その時の「アリバイ」なんですよ。当時、僕はひどく物忘れが激しいもんだから、何でも細かく手帳に書く癖があったんですね。それで、刑事に尋ねられた日時をパッと見たら、「ああ、この日はここにいましたよ」と答えたんです。今でもよく覚えていますが、あの日はとある大学の労働組合の勉強会に出ていたんです。刑事は僕の答えを聞いてすぐその場で無線連絡を取り、別の刑事がその大学に行って裏を取ってきたんです。もしあの時、僕がアリバイを証明できなければ、今ごろどうなってたかな? 僕は物忘れがひどいからメモを取る癖があったのが、結局は身を救ったという話なんですが、何が身を助けるか分からないもんだよね(笑)。その後も、雑誌なんかで犯人扱いされて、いろいろ書かれたりしたんだけど、あれ以降警察のマークがなくなったというのはよく覚えています。もちろん僕には事件には関与していないという身の潔白があるわけですから、警察による本件のガサにもかなり協力的だったと思いますよ(笑)。
宮崎学氏愛用のスケジュール帳
 グリ森事件を振り返ってみると、メディアでは僕のことを「容疑者M」とか、勝手に犯人扱いしてさんざん書かれました。でもね、僕自身、人権を毀損されているとか、あの当時も今も全然思っていないんです。もともと基本的人権とか名誉毀損という法的な利益を持ち得ない社会的階層にいるもんだと思ってましたから。逆にメディアがそう言うんだったら「勝手にそう言い続けろ! お前らはこっちの世界まで来れんのか」みたいに意地になってころもありました。僕は僕なりのやり方で「社会」に反撃してやろう。それが僕の『突破者』(1996年、南風社)の原点なんです。メディアに対する僕なりの反撃なんです。自分の名誉が毀損されたとか、そういう人権派的発想じゃない。そう言ってるお前たちは一体何者なんだ、そんな偉そうなこといえる人間なのかと、逆に僕が問うているんです。自身の人権が毀損されたからけしからん、ということは一度だって言ったことはない。「自由平等」や「博愛」っていう今の社会の原理が当然かのようにお前たちが思ってるんだったら僕はどうなるんだよ、と。

 僕みたいに父親がヤクザの家族っていうと、いわゆる今の憲法の枠内から外れた存在だと思うんですよ。憲法の法の利益を受けれない存在。例えばヤクザだからということで携帯電話を買うのに申し込みの名前が違うだけで、警察はパクるというようなことをやってるわけでしょ。そんなこと、本当にありなのかと。現行憲法の利益から外れた社会的階層だって世の中にはたくさんいるんです。でも、警察は捜査対象がヤクザだったら無理筋でも何でも事件化して逮捕する。そんなご時世だから、ヤクザの家族は憲法の利益を受けられない存在なんだという認識が僕にはあるんです。


学生運動のためだけに早稲田に行った


 『突破者』でも書いているように、僕の家は裕福だったんです。だから小学生のころから家庭教師がついたわけですよ。家庭教師だった人は、京大入学と同時に共産党に入党した学生運動の指導者的存在で、父親は元海軍中佐、戦時中は駆逐艦の艦長をしていたそうです。僕はとにかく勉強嫌いがだったから、なかなか先生の言うことを聞いて勉強しなかった。ところがある日、そんな僕に「うちの近くの小学校で鉄棒やろう」と先生が言い出したんです。「おれ、鉄棒なんてできないよ」と言ったら「いや、簡単だよ」と。先生は予科練出身だから、ポーンと鉄棒に飛びついてググッとね、大回転をやって見せるんです。そりゃあもう、うおーっと思うじゃないですか。子供心にコロッとやられちゃって。そんな家庭教師が中学、高校とずっとついてくれた。その人は当時、左翼だったもんだから就職ができない。アルバイトして稼ぐしかないから、僕の家なんかの家庭教師をしたりして稼いでいたんでしょうね。

 高校に入ったころぐらいのとき、その人からレーニンとかマルクス、いま思うと簡単でもないんだけど物事をどうみるかという基本的な知識と、いわゆるマルキスト的な歴史観を仕込まれた。高校時代にはもう完全に青年マルキストだと思い込んでいて、大学はどこが一番学生運動が盛んなのか、東大はちょっと難しそうだな、じゃ、早稲田だったらいいかと。勉強するためとか司法試験をやるために法学部に入るとかっていう意識は最初からなくて、学生運動をやるためにだけに早稲田に行ったんです。

 大学で学生運動をやってると、警察のマークは結構ありました。大学1年の時、共産党系の運動の後ろの方にくっついるだけだから目立った存在ではないし、まだ警察も目をつけてないだろうと、こっちは勝手に思い込んでいた。そしたら早稲田まで歩いて通学するときに、明治通りと早稲田通りの交差点に交番があって、たぶん戸塚署かどっかの交番の人だと思うんだけども「おー宮崎、元気か?」って声をかけられるんですよ。「あー、これはもうバレてるなあ」。そんなことがありましたね。それと、もう一つは大学1年の12月、早稲田は150日間のストライキに入るわけですけど、その時に京都の自宅まで突然警察官がやって来て、僕のお袋からいろんなことを聞き出していくということもありました。

「トップ屋」が一番活躍できた時代


 僕は昭和40年に早稲田に入学して43年ぐらいにはもう中退してますからね。40年に第1次早大闘争、早稲田の150日間ストライキがあって43年が安田講堂、新宿の10・21騒乱事件でしょ。まさに学生運動のまっ最中の時代にいました。昭和45年から週刊現代のフリー記者(いわゆるトップ屋)になりましたが、フリーになってから3カ月後、一生忘れることができない事件がありました。いわゆる「三島事件」(編注:作家の三島由紀夫が自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、三島が自決)です。それから3年ぐらい週刊現代にいたけどね。当時、週刊現代が100万部の時代ですよ。いま思えば夢のような時代でね。週刊誌のトップ屋が一番活躍できた時代です。活字媒体も結構読まれていたし、今では考えられないですよね(笑)。

宮崎学氏
 そもそも週刊現代の記者になったのは、早稲田大学の先輩でゴリゴリの右翼だったちょっと変わった先輩がいらっしゃったんだけど、それが大東塾の塾長だった影山正治さん。影山さんとはなんか気が合ってね。影山さんが週刊現代の編集者を偶然知っていて「お前、これで生きていくんだったらあんまり縛られないところにいかないと。お前は反発するだろうから、思想信条の問題は別としてやってみれば」という話になって、それが記者人生のスタートだったんです。

 当時は100人を超える取材記者がいました。みんなひと癖もふた癖もあって、右から左まで政治思想もさまざまだったけど、なぜかみんな仲は良かった。原稿料上げろとか、黒板作れとか、記者側の要求を会社側に伝える「記者会」という組織が各派であってね。主導権を握るためぶつかり合うのは、われわれ世代の左翼では当たり前の姿だったんだけど、週刊現代の記者連中は学生運動でみんな「負の経験」をしているから、「ここでセクトを張っても仕方ねえや」って、どこか達観したところがあった。だから、僕なんかが第1期書記長をやれた。同じく副会長は、もう亡くなってしまったけど、ノンフィクション作家の朝倉喬司です。彼は「黒ヘル」っていうか、アナキストの代表選手みたいな人だった。本来ならば、左翼の僕と朝倉は水と油の関係なんだけど、お互いセクトは張らずにものすごくうまくやれた時代でしたね。

 昭和45年のころですから、学生時代にセクト間の争いをずっと見てきて、それが精神的な負の遺産みたいな気持ちというか、共通の認識みたいなものが僕らにはあったんです。だから、すべての物事を進めるにあたって、党派的、セクト的に考えること自体を否定した。右も左もないという、変な団結心みたいなものが芽生えていたのかもしれません。


『突破者』は僕の異議申し立てです


 市民が持つ民主主義的な権利も、市民じゃない人たちは持ち得ない、ある意味市民っていうのは「貴族」だと僕はみているわけです。だから市民になれない人たちを今の社会はどんどん生産しているわけですよね。例えば、学校から落ちこぼれた連中とか、離婚して生活保護を受けなきゃいけなくなった人、子供を学校に行かせられないっていう人も結構出てきている。格差社会は民主主義がたどるべき「宿命」みたいなものであるならば、平等でも公平でもない民主主義そのものが「格差」なんです。実は「差別」を前提として、今の民主主義は成り立っている。なぜ、こう言えるのか。それは、僕自身がいわゆる市民社会から落ちこぼれた人をたくさん見てきたからなんですよ。

店頭から一斉に消えたグリコ製品。次々と撤去された
 例えば、ヤクザになる連中のことを考えてみてください。市民社会にいれなくなって、ヤクザになってる人がやっぱり多いんです。それは学歴だとか、性格が荒っぽいとか、一つの職に長いこと就けないとか、性格とか、あるいは貧しい家庭に育ったとか、いろんな理由や背景があるとは思うんだけど、そんな人を拡大再生産している社会が今の時代なんだと思うんですよ。市民という、ぬるい貴族の人たちは分厚い層として存在しているんだけれど、その下にはさらに違った層も存在している。階層がある社会は存在そのものが公平ではないんだと思う。努力すれば上にいけるじゃないかという反論があるけど、努力すれば一番下の層が市民になれるという保証は何もないんです。どこまで行っても、「努力しないお前が悪いんだ」という理屈が絡んでくる。それは極めて差別的な今の社会を肯定する理屈であり、『突破者』はそれに対する僕の異議申し立てでもあるんです。

 安倍政権になってから、僕は格差が一層広がったような感じがするね。自民党の政治家というのは、それなりの良識があって、公平な社会っていうものを彼らなりに考えていた。今は競争で勝ち抜けっていう社会で、安倍政権的にいえばお前たちの努力が足りないんだよと、バサっと切られちゃうけど、これまでの自民党っていうのはバサっという切り方はしていなかったと思う。その最たるものが田中角栄で、地方でも都市部と同じぐらいの水準にしようとか、いわゆる格差という問題を意識して彼なりの論理で解消していこうとした。ただ、実際には田中角栄の時代にも格差がどんどん広がったのかもしれないんだけど、「建前」としては格差を縮める努力はしようとしていた。小泉純一郎(元首相)以降ですよね、建前すらニッポンになくなっちゃったのは。

 国家としての「体力」という視点で考えてみると、この国は非常に「弱い国」だと思う。国民は意識するしないにかかわらず、国のいろんな恩恵を受けているけれど、精神的恩恵というのもあると思うんですよ。これだけ格差が広がってきて、やっぱり今ね、あんまりテレビは見ない方なんだけど移民したいとか、外国に行きたいという欲求の中で、誰もが本来持っているはずの「郷土愛」みたいなものが希薄になってきているような気がするんです。人口の急激な減少だってそう。例えば六本木なんかは、少し飯倉寄りに行くと小学校があるんですが、来春で廃校になるんです。ということは、そこの卒業生にはもう母校すらなくなる。都市部だから当たり前と言えば当たり前なんでしょうけど、そういうものがあって郷土愛とか、自分が生まれた環境に対する感性が生まれてくるんだろうと思います。いま、日本の根底にあるべきものが、全部なくなってきているような気がしてならないですよね。

 そういや、今年はグリ森事件が起きてからちょうど30年目なんだよね。時代はどんどん変わっているし、あの事件に関心がある人もだいぶ少なくなったと思うけど、あれだけ日本中を騒がせた事件でさえ未解決のまま終わってしまった。いずれ人々の記憶からも消えていくんでしょうけど、僕にとっては思い入れの強い事件の一つだったことに変わりはないですよ。いまごろ犯人は何をしてるかって? 死んだんじゃない? 死んだことにしておこう(笑)。それが一番いいんだと思います。(聞き手 iRONNA編集部、溝川好男)

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