学生運動のためだけに早稲田に行った


 『突破者』でも書いているように、僕の家は裕福だったんです。だから小学生のころから家庭教師がついたわけですよ。家庭教師だった人は、京大入学と同時に共産党に入党した学生運動の指導者的存在で、父親は元海軍中佐、戦時中は駆逐艦の艦長をしていたそうです。僕はとにかく勉強嫌いがだったから、なかなか先生の言うことを聞いて勉強しなかった。ところがある日、そんな僕に「うちの近くの小学校で鉄棒やろう」と先生が言い出したんです。「おれ、鉄棒なんてできないよ」と言ったら「いや、簡単だよ」と。先生は予科練出身だから、ポーンと鉄棒に飛びついてググッとね、大回転をやって見せるんです。そりゃあもう、うおーっと思うじゃないですか。子供心にコロッとやられちゃって。そんな家庭教師が中学、高校とずっとついてくれた。その人は当時、左翼だったもんだから就職ができない。アルバイトして稼ぐしかないから、僕の家なんかの家庭教師をしたりして稼いでいたんでしょうね。

 高校に入ったころぐらいのとき、その人からレーニンとかマルクス、いま思うと簡単でもないんだけど物事をどうみるかという基本的な知識と、いわゆるマルキスト的な歴史観を仕込まれた。高校時代にはもう完全に青年マルキストだと思い込んでいて、大学はどこが一番学生運動が盛んなのか、東大はちょっと難しそうだな、じゃ、早稲田だったらいいかと。勉強するためとか司法試験をやるために法学部に入るとかっていう意識は最初からなくて、学生運動をやるためにだけに早稲田に行ったんです。

 大学で学生運動をやってると、警察のマークは結構ありました。大学1年の時、共産党系の運動の後ろの方にくっついるだけだから目立った存在ではないし、まだ警察も目をつけてないだろうと、こっちは勝手に思い込んでいた。そしたら早稲田まで歩いて通学するときに、明治通りと早稲田通りの交差点に交番があって、たぶん戸塚署かどっかの交番の人だと思うんだけども「おー宮崎、元気か?」って声をかけられるんですよ。「あー、これはもうバレてるなあ」。そんなことがありましたね。それと、もう一つは大学1年の12月、早稲田は150日間のストライキに入るわけですけど、その時に京都の自宅まで突然警察官がやって来て、僕のお袋からいろんなことを聞き出していくということもありました。

「トップ屋」が一番活躍できた時代


 僕は昭和40年に早稲田に入学して43年ぐらいにはもう中退してますからね。40年に第1次早大闘争、早稲田の150日間ストライキがあって43年が安田講堂、新宿の10・21騒乱事件でしょ。まさに学生運動のまっ最中の時代にいました。昭和45年から週刊現代のフリー記者(いわゆるトップ屋)になりましたが、フリーになってから3カ月後、一生忘れることができない事件がありました。いわゆる「三島事件」(編注:作家の三島由紀夫が自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、三島が自決)です。それから3年ぐらい週刊現代にいたけどね。当時、週刊現代が100万部の時代ですよ。いま思えば夢のような時代でね。週刊誌のトップ屋が一番活躍できた時代です。活字媒体も結構読まれていたし、今では考えられないですよね(笑)。

宮崎学氏
宮崎学氏
 そもそも週刊現代の記者になったのは、早稲田大学の先輩でゴリゴリの右翼だったちょっと変わった先輩がいらっしゃったんだけど、それが大東塾の塾長だった影山正治さん。影山さんとはなんか気が合ってね。影山さんが週刊現代の編集者を偶然知っていて「お前、これで生きていくんだったらあんまり縛られないところにいかないと。お前は反発するだろうから、思想信条の問題は別としてやってみれば」という話になって、それが記者人生のスタートだったんです。

 当時は100人を超える取材記者がいました。みんなひと癖もふた癖もあって、右から左まで政治思想もさまざまだったけど、なぜかみんな仲は良かった。原稿料上げろとか、黒板作れとか、記者側の要求を会社側に伝える「記者会」という組織が各派であってね。主導権を握るためぶつかり合うのは、われわれ世代の左翼では当たり前の姿だったんだけど、週刊現代の記者連中は学生運動でみんな「負の経験」をしているから、「ここでセクトを張っても仕方ねえや」って、どこか達観したところがあった。だから、僕なんかが第1期書記長をやれた。同じく副会長は、もう亡くなってしまったけど、ノンフィクション作家の朝倉喬司です。彼は「黒ヘル」っていうか、アナキストの代表選手みたいな人だった。本来ならば、左翼の僕と朝倉は水と油の関係なんだけど、お互いセクトは張らずにものすごくうまくやれた時代でしたね。

 昭和45年のころですから、学生時代にセクト間の争いをずっと見てきて、それが精神的な負の遺産みたいな気持ちというか、共通の認識みたいなものが僕らにはあったんです。だから、すべての物事を進めるにあたって、党派的、セクト的に考えること自体を否定した。右も左もないという、変な団結心みたいなものが芽生えていたのかもしれません。