『突破者』は僕の異議申し立てです


 市民が持つ民主主義的な権利も、市民じゃない人たちは持ち得ない、ある意味市民っていうのは「貴族」だと僕はみているわけです。だから市民になれない人たちを今の社会はどんどん生産しているわけですよね。例えば、学校から落ちこぼれた連中とか、離婚して生活保護を受けなきゃいけなくなった人、子供を学校に行かせられないっていう人も結構出てきている。格差社会は民主主義がたどるべき「宿命」みたいなものであるならば、平等でも公平でもない民主主義そのものが「格差」なんです。実は「差別」を前提として、今の民主主義は成り立っている。なぜ、こう言えるのか。それは、僕自身がいわゆる市民社会から落ちこぼれた人をたくさん見てきたからなんですよ。

グリコ森永事件関連、店頭から一斉に消えたグリコ製品。次々と撤去された
店頭から一斉に消えたグリコ製品。次々と撤去された
 例えば、ヤクザになる連中のことを考えてみてください。市民社会にいれなくなって、ヤクザになってる人がやっぱり多いんです。それは学歴だとか、性格が荒っぽいとか、一つの職に長いこと就けないとか、性格とか、あるいは貧しい家庭に育ったとか、いろんな理由や背景があるとは思うんだけど、そんな人を拡大再生産している社会が今の時代なんだと思うんですよ。市民という、ぬるい貴族の人たちは分厚い層として存在しているんだけれど、その下にはさらに違った層も存在している。階層がある社会は存在そのものが公平ではないんだと思う。努力すれば上にいけるじゃないかという反論があるけど、努力すれば一番下の層が市民になれるという保証は何もないんです。どこまで行っても、「努力しないお前が悪いんだ」という理屈が絡んでくる。それは極めて差別的な今の社会を肯定する理屈であり、『突破者』はそれに対する僕の異議申し立てでもあるんです。

 安倍政権になってから、僕は格差が一層広がったような感じがするね。自民党の政治家というのは、それなりの良識があって、公平な社会っていうものを彼らなりに考えていた。今は競争で勝ち抜けっていう社会で、安倍政権的にいえばお前たちの努力が足りないんだよと、バサっと切られちゃうけど、これまでの自民党っていうのはバサっという切り方はしていなかったと思う。その最たるものが田中角栄で、地方でも都市部と同じぐらいの水準にしようとか、いわゆる格差という問題を意識して彼なりの論理で解消していこうとした。ただ、実際には田中角栄の時代にも格差がどんどん広がったのかもしれないんだけど、「建前」としては格差を縮める努力はしようとしていた。小泉純一郎(元首相)以降ですよね、建前すらニッポンになくなっちゃったのは。

 国家としての「体力」という視点で考えてみると、この国は非常に「弱い国」だと思う。国民は意識するしないにかかわらず、国のいろんな恩恵を受けているけれど、精神的恩恵というのもあると思うんですよ。これだけ格差が広がってきて、やっぱり今ね、あんまりテレビは見ない方なんだけど移民したいとか、外国に行きたいという欲求の中で、誰もが本来持っているはずの「郷土愛」みたいなものが希薄になってきているような気がするんです。人口の急激な減少だってそう。例えば六本木なんかは、少し飯倉寄りに行くと小学校があるんですが、来春で廃校になるんです。ということは、そこの卒業生にはもう母校すらなくなる。都市部だから当たり前と言えば当たり前なんでしょうけど、そういうものがあって郷土愛とか、自分が生まれた環境に対する感性が生まれてくるんだろうと思います。いま、日本の根底にあるべきものが、全部なくなってきているような気がしてならないですよね。

 そういや、今年はグリ森事件が起きてからちょうど30年目なんだよね。時代はどんどん変わっているし、あの事件に関心がある人もだいぶ少なくなったと思うけど、あれだけ日本中を騒がせた事件でさえ未解決のまま終わってしまった。いずれ人々の記憶からも消えていくんでしょうけど、僕にとっては思い入れの強い事件の一つだったことに変わりはないですよ。いまごろ犯人は何をしてるかって? 死んだんじゃない? 死んだことにしておこう(笑)。それが一番いいんだと思います。(聞き手 iRONNA編集部、溝川好男)